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市役所前市民交流広場が9月2日にリニューアルオープンし、市民の交流、憩いの場として親しまれている。公募で決まった愛称は「Minaさかい」。10月からは市民の活動や催しにも活用される予定で、すでに多くの人々が行き交い、堺市の中心市街地の「まち遊び」「まち歩き」の拠点となっている。 広場全体の広さは、約5100㎡で、市役所高層館の入口前にはアーチ状の屋根やステージ(最大幅18m×奥行約7m×高さ0.56m)に利用できる階段スペースがあり、様々な規模、内容のイベントができる。また、大小路シンボルロードの歩道と段差のないフラットな形状で開放感があり、広場内には座ってくつろげるウッドデッキや緑あふれるスペースを備えており、気軽に集い憩える場としても利用できる。まさに堺の都心の交流拠点、都会のオアシスとしての活用が期待される。 市民交流広場の利用についての問合せは、堺すまいまちづくり公社(TEL 072―222―4050)。 |
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9月1日、帝国ホテル大阪(大阪市北区)でベトナム社会主義共和国の建国72周年記念式典が盛大に開催された。 式典には関西の行政、経済団体、企業、友好協会など多くの関係者が出席。堺市からは狭間惠三子副市長、堺商工会議所 前田寬司会頭などが出席し建国を祝った。 挨拶に立ったチャン・ドゥク・ビン総領事は「私は秋には帰国します。本当に寂しい気持ちでいっぱいです。日本で過ごした3年間は皆さんの温かさを感じることができた素晴らしい時間でした。感謝の気持ちでいっぱいです。帰国後も日越の友好関係推進のために力を尽くしたい」と述べた。 |
10月7日㈯~9日(月・祝) |
堺戎神社では、平成30年1月9日㈫から11日㈭に行われる「戎祭」の福娘の一般公募を行う。 堺戎神社 |
「終戦のとき」(十一) |
(前回からの続き)無順警察から釈放され玄関から出たら、無順炭坑所から日本人が迎えにきていたが、「現在、炭坑は業務がすべて停止しており、皆さんをお世話できない」とのことで自由の身になった。 |
江副 良治(90歳) |
10大がんの最新の情報を2日間にわたって市民の皆さんに紹介する全国初のフォーラムが開催されます(大阪労災病院主催/堺市共催/堺市医師会共催)。サテライト会場では、口腔ケアについて、人工乳房、内視鏡に触れてみるなど、がんに関する色々な催しが行われます。多くの方のご参加をお待ちしております。 |
悠紀という名前(2) |
(前回からの続き)昭和十六年、私は中学一年となりました。宗門立の学校でしたが僧籍の先生方の出征もあり日本中が兵力となる騒然たる空気が覆ってきていました。 この頃より、日本中は軍国調一色となり、中学校にも軍事教練が正課として取り入れられ、現役の軍人が軍事教練を教えに来る様になってきました。教練の時間の最初には、必ず整列して点呼があります。点呼始めの号令で一人一人の前に配属将校が立ち、何番、 田中大郎(仮称)という様に大きな声で、苗字名前を発声します。私の前に、即ち私の順番になり、こんどうゆき(近藤悠紀)と発声しました。配属将校は、いきなり、平手打ちで私の両頬を、右手、左手で殴りつけました。転びそうになるのを堪えました。そうして、「何だ、女の様な名前をつけやがって!」と罵声を浴びせかけられました。この事は、毎度の様にあり、ない時には、私の霜焼の手を、さく杖で叩きつけました。包帯は、眞赤な血にそまりました。血が手の掌にまで滴り落ちているのが分かりました。この様な事は二度、三度の事ではありません。配属将校が時により違う配属将校になる事があります。然し、前任者と申し合わせた様に、「貴様は何だ!女の様な名前をつけやがって!」と同じ様に罵声を浴びせ、教練が終わります。私は、度重なるこの仕打ちに耐え切れぬ様になりました。自分でも、いろいろ考えましたが、日本国家の大命の中にある出来事を個人ではどうにも出来ないのでは・・と結論づけました。そうして、父母に相談、名前を変えられないか、日々の現場での情況を話し懇願に及びました。二、三日が経ち、父と母は、弁護士や役所へ有力者を通じ相談したが、「日本では戸籍は変える事が出来ない。憲法の規定があるので、何人もどうする事も出来ない。」という結論に達し、始めて、両親の何とも云えない途方にくれた顔を見ました。この様な事が私の家にあっても、日は容赦なく過ぎ、又、明日という私にとっては地獄の教練の時間を迎えて行く日々になって行きました。 (次号に続く) |
近藤悠紀(88歳) |
NPO法人 さかい企業家応援団 |
起業家やベンチャー企業の支援全般を行う |
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