次へ

「大浜体育館を建て替え」

~南大阪最大級の武道館を併設~

3年後にオープンする大浜体育館
3年後にオープンする大浜体育館

 大浜公園(堺区大浜北町4丁3番50号)に立地する大浜体育館は、昭和46年(1971年)に、堺市が初めて建設した体育館だ。
 施設の老朽化などにより、利用ニーズに応えることが困難になりつつあること、武道の振興や競技力向上を図る拠点の整備が求められていたことなどから、堺市では、市民がより安全で快適にスポーツに親しめる施設として、堺市の武道振興の拠点となる武道館を併設した体育館に建て替えることを決定した。
 現体育館は、市民をはじめ多くの方々に親しまれ、利用率が非常に高いことから、建て替えにあたっては、「現体育館機能の継承・充実」を基本コンセプトとし、次の4つを整備コンセプトとしている。
・「する」スポーツの推進
 誰もが使いやすく、市民が交流しやすい施設とする
・「みる」スポーツの推進
 競技スポーツに対応し、快適な観覧環境を整えた施設とする
・ 武道振興の拠点整備
 武道に親しめ、武道で利用しやすい施設とする
・大浜公園の魅力向上
 公園や周辺環境等との一体性を図るとともに、非常災害時に備え、環境に配慮した施設とする。
 建て替えは民間活力を導入して設計、建設から維持管理、運営までを一体的に行うPFI事業として実施する。
 昨年、総合評価一般競争入札により、大和リース株式会社大阪本店を代表企業とするグループが落札し、今年3月に当該グループが設立した「つながリーナ大浜PFI株式会社」との契約を締結した。
 契約額は整備費と15年間の管理運営費を合わせて約85・7億円で、設計、建設、維持管理・運営を個々に契約する従来手法と比較した場合、市の財政負担額は約9.2億円の縮減が図られるとのことだ。
 平成33年4月のオープンに向けて、平成31年度に工事着手する。
 新体育館は、隣接する市民広場に整備し、オープンまでは現体育館が利用できる。
 民間事業者から提案のあった主な施設内容は次のとおり。
 地上2階建て、延床面積は現体育館の1.5倍の12,905㎡。
 大・小アリーナ(合計約3,000㎡)は現体育館にある大・小体育室の約1.4倍の広さがあり、つなげて一体利用することで最大3,048席の観覧席となる。バレーボールV・プレミアリーグ「堺ブレイザーズ」のホームゲームやバスケットボールBリーグなどの国内トップレベルの公式戦の開催、多くの面数が必要な武道大会なども開催できる。
 武道館は、アリーナから独立した2階に配置し、静粛な環境を確保する。
 4面の試合場は、柔道・剣道・空手・なぎなたなどの競技において日ごろの修練やさまざまな大会に利用できる。また、現体育館の武道場にはない観覧席(固定席312席、車椅子席12席)や専用の更衣室・トイレも設ける。
 そのほか、ランニングマシンやフリーウエイトなどを備えたトレーニング室、研修室、キッズコーナーなどを配置する。
 また、民間事業者の独自提案施設として、カフェと「あそびとスポーツの融合」をテーマにした身体を使って遊べる施設を独立採算で設置運営する。


ベトナムフェスティバル開催

ステージではベトナムの伝統衣装の紹介などが行われた
ステージではベトナムの伝統衣装の紹介などが行われた
 ベトナム社会主義共和国の代表都市ハノイ(北部)、ダナン(中部)、ホーチミン(南部)の「食」、「音楽」などを通じて同国の魅力に触れ、相互理解や交流の推進を図ることを目的とした「ベトナムフェスティバル 2018 in 堺」が3月25日、堺市役所前市民交流広場(堺区)で開催された。
 会場では、ベトナムの伝統的な楽器演奏や舞踊など音楽の演奏や歌唱、バンブーダンスなどのベトナムの伝統的な遊びなどの体験、バインミー(ベトナムのサンドイッチ)、フォー(ベトナムの麵料理)、バインセオ(ベトナムのお好み焼き)など、代表的な料理の実演販売などが行われ、来場者はベトナムの文化にふれていた。

軍を党の下に抑えることに成功した金正恩

元海上自衛隊呉地方総監
金沢工業大学虎ノ門大学院 教授

伊 藤 俊 幸

 南北及び米朝首脳会談が行われることになり、北朝鮮情勢は新たな展開を見せています。これを平昌オリンピック開会式前日に行われた軍事パレードから読み解いてみましょう。
 軍事パレードは、例年四月二十五日の建軍節(朝鮮人民軍創設記念日)に行われていましたが、その建軍節の日程そのものが変更されたのです。そもそも朝鮮人民軍が創設されたのは一九四八年二月八日で、四十年、前金日成が、一九三二年四月二十五日(抗日遊撃隊結成日)に変更していたのです。
 朝鮮労働党が創建されたのは一九四五年十月十日。金正恩は、建軍節を再び二月八日に戻すことで「党創建三年後に軍は作られた。」と国内外に知らしめたのです。オリンピック前日になったのは偶然だったのでしょう。
 二〇一六年五月、金正恩は三十六年ぶりに党大会を開催、新しい役職名である「党委員長」に就任。「経済発展と核武力建設の並進路線(二〇一三年に発表)」は党の戦略目標と宣言しました。またその直前の一月に行った四回目の核実験は、党の「軍需工業部」に命令し、核開発も「軍ではなく党が行う。」と明確にしたのです。つまり、父親の金正恩が国防委員長として作りあげた先軍政治(軍国主義)を金正恩は否定。国防委員会を国務委員会に改組し、祖父金日成当時の「党が国を治める形」に戻し、軍を党の下に抑えつけることに成功したのです。
 軍事機密の塊である弾道ミサイルを、数台のカメラに収め放映することは「軍事的に意味がない。」と筆者は言ってきました。専門家の間では、火星シリーズが一九六〇年代の旧ソ連のロケットエンジンであることや、潜水艦から発射された北極星一型が画像処理された偽物であることなど明らかになっています。
 軍部を完全に掌握せずに米韓などとの対話に舵を切れば、クーデターの恐れがあった金正恩は、権力基盤を万全なものにしたことで、今年から平和攻勢的発言ができるようになったのでしょう。
 ただし「核放棄を前提に対話する。」は金日成も金正日も使ってきた言葉です。金正恩による「瀬戸際外交」が遂に始まった、と認識すべきなのです。