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昨年、9月2日、堺市役所本庁高層館前の市民交流広場がリニューアルされオープニングイベントが開催された。公募した愛称「Minaさかい(みなさかい)」も発表し、以来、市の催しはもちろん、市民によるさまざまな催しも開催されているので、訪れた人も多いだろう。 Minaさかい(堺市市民交流広場)堺市役所前 問合せ先 |
10月に開催される「堺・アセアンウィーク2018」のイベントとしてフォトコンテストが行われます。 アセアン諸国(ブルネイ、カンボジア、インドネシア、ラオス、マレーシア、ミャンマー、フィリピン、シンガポール、タイ、ベトナム)で撮影した、テーマ2分野(「アセアンの人と暮らし」と「思い出に残るアセアンの風景」)に即した写真を大募集しています。 思わず撮ったあなたがみつけた瞬間や紹介したくなる風景など、応募者本人が撮影した未発表のオリジナル作品に限ります。満20歳以上、プロ・アマ不問、1人1点のみ応募可。JPEG/PNG/GIF形式のいずれか、2200×1600ピクセル以上、20MB未満。電子データでの受付のみ(郵送は不可)。1次審査通過作品(80作品程度)は、10月9日㈫~10月18日㈭正午まで、堺市役所本館1階エントランスホールにて展示されます。 ・応募締切 8月6日㈪ ・各賞 最優秀賞(1人) 堺包丁セット、雨風セット(泉州うまくち醤油、ポン酢等4点セット)、注染製品、さかい利晶の杜特別観覧セット券(ペア) 優秀賞(2人) 堺包丁、しょうゆ味くらべセット、さかい利晶の杜特別観覧セット券(ペア) 優良賞(10人) 堺爪切り、注染製品、さかい利晶の杜特別観覧セット券 賞品の発送は国内のみ。 ・応募方法 堺市電子申請システムにて必要事項を入力の上、応募ください。 ・問合せ 堺・アセアンウィーク実行委員会事務局(堺市文化観光局国際部アセアン交流推進室内)072―222―7343 ako@city.sakai.lg.jp |
昭和20年の堺大空襲により尊い命をを失われた方々の冥福を祈る「堺市戦災物故者慰霊祭」(主催 堺市戦災物故者慰霊祭保存会)が地元の有志により7月9日、西山浄土宗 一光寺(堺区)で営まれた。=写真= 慰霊祭保存会の世話人代表、鎌苅和由氏は「私どもは戦後七十年余り続いて参りました慰霊祭を風化させてはならないと考えています。これから先も戦争のない恒久的な世界の平和を祈願申し上げます」と追悼の言葉を述べた。 一光寺の宮田眞眼住職による読経のもと、参列者は御霊の冥福を祈りながら、平和の尊さをあらためて心に刻んでいた。この慰霊祭は来年も予定されている。 |
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(前号からの続き)時は流れ、世の中が段々と治まり、人々に平和の暮らしが見られる様になってきました。 昭和四十年後半頃と思いますが、保健所の者だと云う人が来られ、家の責任のある立場の者と話がしたいという事で、母と何か話し合いがありました。それは庭に植えておられる花は、「けし」ですネ、と念を押され、何処から入手されたのか、と質問がありました。母は知人がアメリカから持ち帰ったと主張し話しましたが仲々疑念を持っての聞き取りで納得して頂けませんでした。未だ日本は飛行機もなく、まして海外に行く者は、政府関係者の極限られた者のみでしたので当然の事ではありました。取り敢えず、全部抜き取ると云う事で帰られました。 そうして一年後に又来られ、未だ咲いているが抜き取って下さいと云われ、昨年抜き取った為少なくなっていましたので、手間なく抜き取る事が出来ました。然し保健所は、始末書を要求されましたので、理由は同じだと云いました所、それでは困ると云い張られ、しばらく沈黙の時間があり困惑しました。然し父が、今度来られた時には、鳥がどこからか運んで来たと云う様に母に伝えていた事もあり、母が鳥が運んできましたと始末書に書きました所、それで「良」と云う事になり、「ヤレヤレ」安堵致しました。こんな始末になるとは予想もしなかった事でした。敗戦の混乱期の中の、説明のしにくい、本当のお話でした。 ここで、武田さんの事に、もう一度ふれておきます。 私共の知己を得た時は、昭和十年位であったと思います。阪急沿線岡町に住んで居られ、職業は無職で多くの骨董品、美術品に囲まれて、ピアノを弾き、悠々の生活をして居られました。或る日、訪問中、丁度月夜の晩でした。武田さんは月光の曲を弾いて聞かせて頂きました。幼な心に詩歌とは別にこんな心の表現がある事を知らされた記憶を今も残します。実家は、和歌山県の、大きな船問屋で遠く、関東方面に迄、海産物等を運び商っておられたと聞かされております。学歴は、中学校中退であった様です。独学で、英語、ピアノを勉強したと聞いております。戦後、進駐軍がが、日本人の思想に危惧を抱いてか、日本の郵便物の開封検閲をした時期がありました。その検閲スタッフの試験に合格、進駐軍の管理下で仕事をしておられました。(C.C.D)そうして、その後どの様にしてか存じませんが、Y農園の外国部長の肩書でアメリカに行かれたという事でした。生涯で働かれたのは、この三、四年だけだった様です。 植物の事もよく御存知でした。カーネーションが未だ日本になかった頃、彼は個人輸入をしてフレームで栽培、父は見に行ったと聞いております。又、俳句、歌にも通じ、世界情勢にも詳しく、しっかりとした見識を持っておられました。風采を気にせず何時も飄々としておられました。風狂の人とはこの様な人の事を指すのかしらという思いがあり、その横顔を懐かしみます。 |
堺市西区 |
「終戦のとき」(十九) |
(前回からの続き)やっとの思いで無事日本に上陸し、夢にまで見た故郷に向かうため駅に。着くと驚いたことは、列車の車輪の小さい事。満州では線路の幅が広く、列車が大きいので、最初に日本の列車を目にしたとき特別小さく見えたのを覚えている。 列車は超満員で、窓からも人がどんどん乗り込んでくる。これは佐賀に帰っても生活は大変だとつくづく思った。付き添った病人も何らか変わったことも無く送りとどける事ができ、約束を無事果たした。 故郷に着き、家に入るなり、お帰りの言葉よりも先に一言「お前だけは必ず無事に帰ってくると信じていたよ」と。後で聞いたが兄弟5人が兵隊に行ったが、兄2人が戦死し、私の帰りを待ち望んでいた。 |
江副 良治(92歳) |
株式会社チロル 代表取締役 穐吉 俊行 氏 |
事業内容
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