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【石津太神社】 ※日程、時間など変更になる場合があります。 |
野 村 亜紀子 |
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堺区の環濠の東側には寺院が多い。四百年ほど昔、豪商たちが競って寺に寄進し、新たに建てた為、二百二十五もの寺院が有った今も本願寺別院の周りは、路地を挟んで、寺が並び、まるで時代劇の中に居るようです。よく通ってはいますが、ゆっくり見る事も無く、あらためて見ると、屋根瓦といい木彫りが施されているのが、芸術品の様に思える出来なのです。昔の職人達の技術の高さ、確かさに感動です。さて、これらのものを描くのは少々やっかいです。屋根瓦があまりに素晴らしくて、それを表現するのに手こずり、木彫りはそれらしく描くのに苦辛しましたが、いかがでしょうか。 このあたりは寺院が醸し出す雰囲気で気持ちが落ち着きます。変わり様の無い場所ですが、周りの民家がずい分変わってきています。願わくば目をむいた様な建物が建たないようにと祈っています。 最近益々建造物が気になり複雑なほど描きたく気持ちが高揚するのです。写真とは違った、愛情をこめて描くことによって残す物、まだまだ街を徘徊します。スケッチブックを持ってですよ。早く涼しくなって下さい。 |
(前回からの続き)金原出版「梅毒の診断と治療―特に妊婦梅毒―」の出版記念祝賀会(昭和47年)のカイジュウクラブ(会長は長谷川四郎衆議員 当時副議長 群馬県を選挙区桐生市中心)前原さんにお願いしたら、すぐやりましょうと喜んでくれた。やるからには帝国ホテル(東京有楽町)にしましょう、楠本雅彦氏いかがというから私が一字一句自分一人書いたものであり、彼にすでに論文一編もなかった。梅毒に日本ではじめてペニシリン治療を考え、先天梅毒児の出生を完璧に阻止した。絶対に呼びたくないと答えた。ごく親しい方だけにしていただいた。私にとってこの祝賀会が数年の短い研究であったが一生つづけた研究になり、当時多くの先天梅毒児の人達はとてもどんなに恥ずかしかったかはかり知れない。おいでいただいたお一人お一人にお話いただいて、拙書と末広がりの意味で当時最新式の折りたたみの傘にした(今も馬場さんのご好意に感謝しています) |
(続く) |
筆者は本年も9月15日、石清水八幡宮の勅祭石清水祭に参列した。午前2時に始まり、放生行事まで合わせると午前9時までに及ぶ。石清水祭の起源は、貞観5年(863)宇佐宮(現・宇佐神宮)にならって、生きとし生けるものの霊を慰め供養するため魚鳥を解き放つ「石清水放生会」であった。天暦2年(948)勅使が差遣されて以降、戦国時代から200年ほどの中絶を経て復興され、今でも全国の16勅祭社のひとつとして勅使が参向している。 |