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ろうさい 市民がんフォーラム 2019

進化するがん医療!~最新治療から緩和まで~

 がんの最新情報を2日間にわたって市民の皆さんに紹介するフォーラムが開催されます。(大阪労災病院主催/堺市共催/堺市医師会共催/堺市歯科医師会共催/堺市薬剤師会共催)サテライト会場では、人工乳房や腹腔鏡操作体験コーナー、ろうさいがん患者と家族の会「いたわり」おしゃべり会など様々な催しが行われます。有志によるコーラス、落語公演もお楽しみいただけます。多くの方のご参加をお待ちしております。
日時 11月16日㈯・11月17日㈰両日10時~16時10分(両日開場9時30分)
場所 大阪労災看護専門学校 アイリスホール(堺市北区長曽根町1180番地15) 
プログラム
〈16日〉
○胃がん・大腸がん
○肝がん
○膵がん・メタボ関連 
○がんのケア
〈17日〉
○泌尿器がん
○両立支援
○肺がん
○子宮がん
○乳がん
サテライト会場
○口腔ケアを知ろう
○人工乳房を体験しよう
○胃カメラや腹腔鏡を触ってみよう
○メイクアップのための化粧品の展示
○ウィッグを体験しよう
○「いたわり」おしゃべり会(16日11時30分~)
○社会保険労務士による就労サロン(17日12時20分~)
アイリスホール催し
○有志(「ひきしょうマミーズ」)によるコーラス(16日12時30分~)
○落語公演(千里亭だし吉)(17日12時20分~)
定員 各日500名
参加費 無料
参加申込 事前登録要(当日受付も可能)
申込方法 以下①~③のいずれかで申し込み。
①ホームページの専用フォームから送信。
②申込用紙を郵送・FAXで。
③申込用紙を同院正面玄関申込受付コーナーへ持参。
※詳細はホームページをご覧ください。
申込期限 11月8日㈮
事前登録いただいた方には参加証を郵送。当日ご持参ください。
アクセス
○車の方 労災病院駐車場がご利用できます(徒歩約5~8分)。駐車料金無料化の処理をいたしますので、会場受付まで駐車券をお持ちください。
 ※身体のご不自由な方は、専用駐車場をご用意しておりますので、スタッフまでお声掛けください。
○公共交通機関の方 南海バス(15系統または35系統)にて「金岡公園前(労災病院前ではありません)」下車(徒歩約3~5分)。南海バスは新金岡駅(御堂筋線)、三国ヶ丘駅(JR・南海)、堺東駅(南海)より接続。
○自転車の方 会場の駐輪場をご利用ください。
昼食 昼休憩時に会場にてお弁当を販売予定。※先着100食限定。売り切れ次第終了。お弁当の会場持込可(飲食指定エリアあり)。
宛先・問合せ先 
大阪労災病院「ろうさい市民がんフォーラム」係
〒591―8025
堺市北区長曽根町1179番地3
TEL
072―252―3561
FAX
072―255―3349
URL
http://www.osakah.johas.go.jp

“神明町附近”
堺 町並み スケッチ(237)
野 村 亜紀子 

思い出(昭和通り)
野 村 亜紀子
 もう11月、長い夏でした。10月には最大級の台風19号が東日本に記録的な大雨をもたらし死者80人以上、決壊河川100ヶ所以上、その災害のひどさは想像を絶するものでした。住居・仕事・家族を亡くした方、その後の生活を思うと辛い思いが胸にせまります。一日も早く復旧復興を祈ります。
 堺は自然災害の少ない土地だと思います。世界遺産となった御陵が多い事と関係が有ると思われてなりません。先人の知恵はこの地が安全と見極め選んでいた事、海が今より御陵近くあり、漁も出来、平地が広く農耕も身近、その上自然災害の少ない土地と、災害が避けるかのように過ぎ去るたびに思うのです。生まれ育ったこの町が好き。街路の木が大きくなり、かなり緑が多い印象となりました。後は、近いうちに来るという南海トラフ地震の心配です。想像出来ないものは恐ろしい。昭和25年に南海トラフ地震がありました。冬寝具にくるまれたまま庭に出されていました。いつ来るかわからない。命は自分で守るもの。
 さあ秋です! スケッチに出かけよう。風と陽に包まれて愛する街を描きましょう。

産婦人科医の臨床メモ ⒅

インターンから医師へ⑹

元近畿大学医学部特任教授 淵 勲

 (前回からの続き)次の年の4月、日本医学会総会では性感染症の部でシンポジストに選ばれた。学会当局からは私に全く何の連絡はなかった。私は大阪に来ていたが、京都の会場に行ってみた。質問の全くないシンポジウムで時間切れだった。医局の先輩の伊藤宣孝先生と高橋哲也先生が入場していた。私は不愉快であった。私も会場に来ていたがだれにもあいさつせず帰った。私は、やはりわかるように書きとめておく。
 楠本先生は病院をやめるとき送別会は無かった。私の長男は3月30日出生したが硬麻分娩を管理し娩出直前に立ち会ってもらった。お呼びしなければしかられるから。逓信時代の彼の論文はすべて私が書いたものであって、拙書の印税はいただいていない。発表した論文はファーストネームを入れるだけで出版社からの原稿料もいただいていないのに、私にびた一文もくれていない。
 私は安井修平先生の弟子であり、ご高齢になり日本一分娩料の高い山王病院に移り後任の部長には楠本先生(安井夫人のいとこ)下平和夫先生ではなかった。この人事はだれも引きとめることはなかったとか。
 私は杉山先生に無給時代に膣式手術を教えていただいて、当直に行っても自分の家に帰るよう、精神的にも肉体的にも気楽であった。拙書は臨床成績が少ないとお書きになっていた。私は砒素剤の検討を行っていないし論文を全く持っていなかった。
 この成績を調べておけばよかった。安井修平先生にも論文もなかった。楠本雅彦先生はこの本を書く材料を全く持っていなかった。全て管理していたが医学博士の学位をいただいてから群馬大学の研究室の会合に出席するが、木曜日は原稿書きの日にした。(続く)


11月 議会日程

5日㈫・8日㈮10時30分
竹山修身前市長の選挙資金問題等調査特別委員会
19日㈫13時 議会力向上会議
26日㈫10時 議会運営委員会
28日㈪13時 本会議
29日㈮10時 議会運営委員会
傍聴などの問い合わせは堺市議会事務局議事課(228―7812)まで。


第40回 公募 府美協展

日本画・洋画・版画・きり絵・彫塑立体
11月26日㈫~12月1日㈰
9時30分~16時30分
大阪市立美術館
    (天王寺公園内)
主催 大阪府美術家協会
※本紙連載中「堺町並みスケッチ」の野村亜紀子氏の作品も展示されます


国防と神社(21)

『日本書紀』編纂1300年シリーズⅦ
 対中対等外交と聖徳太子

大阪観光大学講師 久野 潤

 『日本書紀』を土台に、前稿までしばらく古代の朝鮮半島との関係について触れた。今回は中国との関係を取り上げたい。
 古代の東アジア国際関係については、中国を頂点とする華夷秩序、すなわち中国皇帝と周辺国との君臣関係を中心に説明されることが多い。重要なのは、漢王朝以来のそうした構図の中で、我が国のみが中国王朝に対等外交を求めたことである。
 『日本書紀』では、推古天皇15年(607)小野妹子を隋王朝に派遣したことが記されている。このいわゆる遣隋使は、日本の君主が中国皇帝によって任命される「王」ではなく、お互い対等な「天子」だと称して対等外交を求めた。その少し前、蘇我氏による第32代崇峻天皇弑逆によって政局は混乱を極めていた。第33代推古天皇の摂政を務めた聖徳太子のもと、推古天皇11年に冠位十二階、翌年には十七条憲法が制定され、天皇の権威回復が図られた。そうして国内政治が安定してから、遣隋使派遣となるわけである。(残念ながら戦後の歴史書では、第1回遣隋使を中国側『隋書』の記述のみを根拠に西暦600年だとして、倭王「阿毎多利思北孤」の奇怪な政治が隋の文帝にたしなめられる叙述が先行してきた)
 さて、聖徳太子は十七条憲法の第2条「篤く三宝を敬え 三宝とは仏法僧なり」や四天王寺・法隆寺のイメージから、(神道より)仏教を重視したように思われがちである。しかし20歳で初めて四天王寺を建立した(593)のに先立ち、その鎮守として崇峻天皇2年(589)父の第31代用明天皇を神として祀った事蹟が伝わっている。その地は『日本書紀』に見える、推古天皇6年(598)聖徳太子の命で新羅へ派遣されていた吉士磐金が帰朝して献じた「鵲二隻」が飼われた場所として、「鵲の森」と称された。のちに穴穂部間人皇后や聖徳太子も合祀された神社は、鵲森宮と呼ばれるようになり現在に至る。すぐそばにあるJR/大阪メトロ森ノ宮駅の、名前の由来でもある。
 神道―仏教融合の礎を築き、中国との対等外交を実践して永く先例とした聖徳太子は、神を祀り、自らも護国の神として祀られたのである。