次へ

加藤均誕生会、及び
第56回カトウグループ新年祝賀会

盛大に開催されたカトウグループ新年祝賀会

盛大に開催されたカトウグループ新年祝賀会
 政治学博士 加藤均氏の誕生会及び、カトウグループの新年祝賀会が1月15日、ホテル・アゴーラ リージェンシー堺において盛大に開催された。
 衆議院議員 岡下昌平氏、ベトナム社会主義共和国総領事館 総領事 ヴー・トゥアン・ハイ氏、自衛隊大阪地方協力本部副本部長 防衛事務官 木内一郎氏、海上自衛隊 阪神基地隊司令代理 1等海佐 高橋しんご氏、在日ベトナム社会主義共和国大使館 国防武官 陸軍大佐 ヴー・コック・アイン氏、中華人民共和国駐大阪総領事館 総領事代理 領事 趙婷婷氏、第40代呉地方総監 三木伸介氏、第41代阪神基地隊司令 深谷克郎氏、大阪歯科大学 理事長・学長 川添堯彬氏、羽衣国際大学 学長 吉村宗隆氏、鹿児島県議会議員 小園しげよし氏、日本舞踊 藤間流 師範・国際交流舞踊クラブ代表 藤間良太郎氏、「ゆうもあくらぶ」 理事長 大村崑氏らなど約400人が出席した。
 加藤均氏は謝辞の中で「私が卒寿を迎えるまで過ごしてこられたのは皆様のおかげです。今後も国際交流事業の発展と国民全体の国防意識の向上を目指すとともに、『感謝』の気持ちを持って皆様に恩返しをしていきたい」と力強く語り、会場からは大きな拍手が送られた。

堺駅前ギャラリー
ガルリー堺

松本 敬 絵画展(水墨画)
2月7日㈮~12日㈬
11時~17時

ガルリー堺
(南海本線 堺駅前)
堺区熊野町西3丁2―14 松見ビル2階


2月 議会日程

14日㈮10時 議会運営委員会
18日㈫13時 本会議
19日㈬10時 議会運営委員会
26日㈬10時 本会議
27日㈭10時 本会議・終了後 議会運営委員会
28日㈮10時 本会議・終了後 予算審査特別委員会
議事の都合により日程などが変更される場合があります。
傍聴などの問い合わせは堺市議会事務局議事課(228―7812)まで。


昭和の記録映像上映会

 『太平洋戦争~3戦線拡大』(陸軍は勢いに乗ってビルマ進攻)の記録映像を見ながら昭和史を学び、考え、戦争体験者から戦時中の話を聞きながら語り合う。2月8日11時~、堺市立東文化会館(南海高野線北野田駅)で。主催は昭和の庶民史を語る会(072―236―3357)。
 『懐かしい大阪・堺の明治建築の幻燈上映会』それぞれの時代を雄弁に物語る歴史建築を幻燈で見ながら建築の面白さを考える。2月15日11時~、堺市立東図書館(北野田駅前)で。講師・明治建築研究会代表柴田正己氏。ともに参加自由、直接会場へ。


産婦人科医の臨床メモ (19)

インターンから医師へ⑺

元近畿大学医学部特任教授 淵 勲

 (前回からの続き)梅毒治療の仕事は、分娩はすべて管理したが採血して検体を保存しておき、関連する論文も多くはなかった。
 私はいつも学会で発表する機会を狙っていた。高木繁君が日本医大皮膚科学教室と産婦人科学教室の医局会で発表する機会をつくってくれた。奈良林君にも大変お世話になった。
 次に硬膜外麻酔による無痛分娩のお話しをしたいと思います。まず第一は硬膜外麻酔の手技にみがきをかけて絶対に失敗しないように精力的に手技の練習に取り組んだ。
 日本医大麻酔科西邑教授の若いドクターは分娩の採血をしたいそうで、娩出まで一緒に行った。分娩が終わっても私は1時間以上に分娩室を離れず、出血等がないことは確認してから帰った。その頃は夜も昼もなかった。郵政宿舎が法政大学をはさんで市が谷より5~6分と近かった。病院での研究では私はホルモンの測定、局麻剤のベビーへの反応などを考えていたので、大森臨床検査室長に相談してOKの返事をいただいていたが、学会発表用の精度の高いものにしたかった。(続く)


“元花時計(安井町)”
堺 町並み スケッチ(240)
野 村 亜紀子 

元花時計(安井町)
野 村 亜紀子

 令和2年の冬は暖かく過ごし易い。スキー場は雪不足と報道している。我が家の植木いっぱいのベランダに毎日すずめが来ます。寒い日に日溜まりに並んで止まり、うたた寝をしたり笑わしてくれます。元旦には頭と羽根部分が白いすずめが来て仲間とわりに長い間遊んで行きました。生まれて初めて見ました。元旦早々、良い事の前兆かも知れないとそのかわいさも嬉しくて、本当に幸せな時間でした。
 今年はオリンピックが催されます。スポーツ大好きの私には楽しみな8月です。又、あっ!という間に一年が過ぎるのでしょうね。後残り少なくなって来た私の一生。30年先は絶対無い!と事ある毎に思ってしまう日々、大切に、大切に一日を生きる。自分の為の時間、元気でなければ意味が無い〝年だから〟は無い、10年前と同じ生活を、と努力する。若い頃は思ってもいなかった事だけど。これが年取ったということですね。
 安井町交差点に有る元花時計、昔この横に画廊が有り、数回利用した事が有るなど、思いながら陸橋より描いてみる。花の無いのはさみしい。花や木がいっぱいの堺の町になって欲しい春が待ち遠しい。まだ2月。


国防と神社(24)
『日本書紀』シリーズⅩ 白村江の戦い 後編

大阪観光大学講師 久野 潤

 前号では、白村江の戦い(663)後の日本と百済との祭祀を介して今に続く関係に触れた。今回は、白村江が1300年近くを経た大東亜戦争(太平洋戦争)の時までも民族的記憶として留められていた話を取り上げる。
 大東亜戦争の敗戦後、我が国では「憲法9条を守れば日本も世界も平和」などと大まじめに語られてきた。然るに『日本書紀』には、第38代天智天皇が白村江敗戦の翌年、対馬・壱岐・筑紫(現在の福岡県)などに守備兵と烽火台を置き、また筑紫に大きな水堀を擁する水城(遺構の一部が現存)を築かせたことが記されている。そして都のある東へは高安城(現奈良県平群町)まで、南へは鞠智城(現熊本県菊池市)まで多くの城砦を築造していった。すなわち、大陸や半島の敵がどこから進攻しても、烽火のリレーで近江大津宮や大宰府へすぐに報告が届く。一大公共事業で当時考えうる最高の国防態勢を構築し、敵の侵攻に備え、またその国防意識を後世に伝えたのである。
 紀元2600年にあたる昭和15年(1940)大津宮跡に、天智天皇を祭神とする官幣大社として近江神宮が創建された。そのわずか5年後、大東亜戦争敗戦を迎えた直後の昭和20年12月15日、GHQが日本政府に対して発した覚書「国家神道、神社神道ニ対スル政府ノ保証、支援、保全、監督並ニ弘布ノ廃止ニ関スル件」(いわゆる神道指令)により神社と国家との関係が断ち切られてしまう。
 まさにこの神道指令の当日、昭和天皇により白村江以来となる敗戦の奉告と復興祈願のための勅使差遣と併せて、近江神宮は最後の勅祭社(全国で全16社)に治定された。翌年、昭和天皇の名代として近江神宮に参拝した稲田周一前侍従次長は「このたびの敗戦はまことに遺憾の極みであるが、1300年前の天智天皇の御時、唐・新羅の軍と白村江に戦って大敗した歴史がある。天智天皇は直ちに兵を撤せられ、国内諸政の一新を企てられ、文化を振興、国力の充実を図られた。これを模範として、諸政一新、文化経済を盛んにして永い将来に対処したいと強く念願しているから、一同もこの旨を体して大いに発奮努力して欲しい」(近江神宮公式サイトより)との勅語を伝えた。果たして戦後の国防政策には、この精神が反映されているであろうか。