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堺唯一の酒蔵「利休蔵」
アルコール450ℓを寄贈

 堺で唯一の酒蔵を持つ有限会社 利休蔵(代表取締役 西條裕三氏)は、7月13日、堺市宛てに消毒用高濃度エタノール500ml×900本を寄贈した。これに対し永藤英機市長から感謝状が贈呈された。消毒液は堺市内の医療機関や学校などに届けられる予定。蔵主の加藤堅氏は「まだまだ消毒液が足りずに困っている所は多いと聞きます。同消毒液は度数が78%と高濃度であり消毒効果に期待が持てます。現在は20tのアルコールを調達しており、約4万本の製造が可能です。アルコールを扱う者として、日頃お世話になっている皆様に少しでもお返しができればと思います」と述べ、永藤市長は「まだまだ消毒液の供給が追い付いていない中、このようなご厚意に感謝申し上げます。コロナ禍の影響が続いていますが、皆様には日々の生活に気を付けながらも、堺の経済を盛り上げていただければと思います」と感謝の意を表した。

鈴音に
願いを乗せて

=写真=

 「毎日笑って過ごせますように」。短冊に書かれた願いが、鈴音とともに静かに響く。堺市中区八田寺町所在の蜂田神社で行われている「風鈴まつり」は今年で6回目。7月3日には、市立八田荘幼稚園の園児約40人と、市立八田荘小学校の児童約90人が短冊に願いを書いた風鈴を、八田荘こども園の園児75人が自ら色をつけた風鈴をつるした。
 磯﨑伸子宮司が「地域に愛される神社を目指して」と、当初は30個からはじまった同祭、地域住民からの寄付や支援により、今年は900個の風鈴が境内を彩る。=写真=
 同神社事務長の鶴埜清治氏は「新型コロナウイルスで暗い雰囲気の中、少しでも明るい未来を子どもたちの夢とともに見てもらいたい。また暑い季節になるが、皆様に風鈴の涼しい音色と境内の爽やかな風を感じてもらえれば」と語る。
 別名「鈴の宮」と呼ばれる蜂田神社。毎年春の初めに土鈴12個を作り神前に供え、鈴音の良し悪しでその年の吉凶を占ったという古事に由来する。「風鈴まつり」は8月31日まで開催中。


“土居川(少林寺町西)”
堺 町並み スケッチ(246)
野 村 亜紀子 

境王子跡
野 村 亜紀子
 やっと私のいつもの生活がもどりました。運動が出来なかった事、体力・気力が衰え、元へ戻すのが大変。 思えば40年程生活の中に運動を入れ、それによって私の健康が維持され、「健康だから出来る事」で元気に毎日過していたが僅か、半年で体力・気力が欠け老いがおしよせた気分でした。私にとっての運動は生きることの全てだったのです。コロナ騒ぎで学んだ事、自由・健康、いつまでと区切りの無い怯えの生活が続くのは、本当につらいものです。又新聞でシベリアが30℃の高温を記録し、凍土が溶ける異常事態だとか、一日も早く、世界のリーダーの協力の元、地球温暖化を止め、元の地球にもどす事をしないと人間はもとより生物が絶滅する事になるのではないでしょうか。科学万能で人間にとって都合の良い発展が恐い。この半世紀の変りようが恐くてしようがない。地球の自然と共に生きるのはいけない事なのでしょうか。緑が眩しい季節、内川・土居川の川側いは、緑が多い、何度も描いていますがどんどん景色が変ります。川面の緑と空の色が本当に美しいのです。

『終戦記念日を考える小集会』

 「日本人はなぜ戦争へと向かったのか 第1回〝外交敗戦〟孤立への道」の記録映像を見ながら昭和史を学び、考え、体験者からの戦時中の話を交え語り合う。8月8日11時から堺市立東文化会館で。主催 昭和の庶民史を語る会。
 『終戦記念日を考える市民参加のミニ平和と戦争展』8月8日~15日、堺市立東文化会館で。主催する昭和の庶民史を語る会代表の柴田正己氏は「今年も市民参加のささやかな展示をします。展示を通して少しでもあの頃の戦争の記憶を思い出して平和について考えていただければ幸いです。皆様の家庭で戦争を想い出す物(資料、写真等)があれば展示させて下さい。展示を通して少しでも平和、戦争について考えるきっかけになれば幸いです」と話す。市民から提供された戦前の教科書、赤紙、軍人手帳等を展示。問い合わせ先は昭和の庶民史を語る会、柴田氏(072―236―3357)まで。
 『終戦記念日を考える小集会』戦争遺構を幻燈で見ながら平和、戦争について語り合う。戦争の歴史を雄弁に語りかけてくれる戦争遺構の保存と取り壊しの現況を紹介します。8月15日11時~、北野田駅前の堺市立東図書館で。参加自由、直接会場へ。講師は戦争遺構研究会代表・柴田正己氏。


国防と神社(30)

『『日本書紀』シリーズⅩⅥ
疫病との戦いゆかりの神社 後編

大阪観光大学講師 久野 潤

 前号では疫病を鎮めるべく安直な仏教受容を諫めて古来の神々崇敬を勧め、我が国忠臣の先駆けとされた物部守屋を祭神とする神社を取り上げた。近代に入ると我が国でも当然科学的な疫病対策が志向されたが、同時に『日本書紀』での第10代崇神天皇に代表される、自らの祭祀を省みる精神が受け継がれていた例を今回は示したい。
 戦死者約1000万人という、それまでの戦史上最大の惨禍をもたらした第一次世界大戦(1914~18)だが、同時期に発生したスペイン・インフルエンザによる死者は全世界で2000万人以上に及んだ。今次の新型コロナ感染拡大に際して、アメリカ空母の艦内集団感染が話題となったが、当時の人口1%弱にあたる50万人近くの死者を出した日本も同様の事件に遭遇している。
 日英同盟にもとづき、イギリスなど連合軍側の輸送船団を護衛すべく派遣された第一特務艦隊所属の防護巡洋艦「矢矧」は、戦闘で犠牲を出すこともなく大正7年(1918)11月大戦終結によりシンガポールから帰投。シンガポールでの時点ですでに艦内で10名のインフルエンザ罹患者がいたが、当初通常の風邪と判断し患者の艦内隔離しか行わなかったこともあり、マニラ経由で翌年1月帰国するまでに乗組員と便乗者あわせて469名中442人が罹患していた。結局「矢矧」は、乗艦者の一割以上にあたる48名の死者を出し大惨事となった。
 大正9年9月、艦名の由来となった矢作(矢矧)川沿いに鎮座する矢作神社(現愛知県岡崎市)の分霊が「矢矧」艦内神社として祀られた。艦長の高倉正治大佐以下「矢矧」乗組員は、自分たちに欠けていたかもしれないところを考え、預かる軍艦の拠るべきところへ敬神精神の念をもって立ち返ったといえよう。こののち艦内神社が海軍全体に広まったといわれ、現在の海上自衛隊にも受け継がれている。
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 本年9月6日㈰午後4時より帝国海軍軍艦慰霊顕彰会主催で、矢作神社(愛知県岡崎市矢作町宝珠庵1)において地元崇敬者も参列のうえ防護巡洋艦矢矧艦内神社奉斎一〇〇年慰霊顕彰祭が斎行されます。参列希望者は編集部まで。