次へ

南大阪最大規模のアリーナ
大浜体育館・武道館がオープン

 4月1日、大浜体育館・大浜武道館がオープンした。
 歴史ある大浜公園に立地する新たな大浜体育館・大浜武道館は、大浜公園の風景に溶け込み、市民に希望の光をともす新たなランドマークとなるよう、市民に愛される「旧堺燈台」をデザインのモチーフに。
 大浜体育館・大浜武道館は、エントランスホールを中心にアリーナ棟と武道館棟にエリア分けされ、大規模大会やプロリーグ、日常利用、スポーツ以外のイベントなど様々な利用目的やニーズに柔軟に対応できる施設。アリーナ棟と武道館棟をつなぐ「コミュニティ空間」にはキッズスペースや休憩スペースを設け、子どもから高齢の方まで様々な利用者が行き交う交流スペースとなっている。

柔道、剣道などに使用できる武道場

柔道、剣道などに使用できる武道場
 南大阪最大規模となる約3000席の観覧席を備えたアリーナは、観客に囲まれた一体感と臨場感を創出し、V.LEAGUEやB.LEAGUEなどのトップレベルのスポーツ観戦を楽しむことができる。また、日ごろは子どもから高齢者まで幅広い世代の方にバレーボールやバスケットボールなど様々なスポーツで利用が可能。

トップレベルのスポーツ観戦が楽しめるアリーナ

トップレベルのスポーツ観戦が楽しめるアリーナ

 アリーナに併設された武道館は、旧大浜体育館の特徴であった武道場を充実させ、武道にふさわしい趣のある外観や内装とし、武道に親しみやすい開放的な空間となっている。床材は素足での足ざわりが良い複合フローリングのヒノキ材を採用し、表面には裸足の競技を考慮した無垢の肌触りに近い仕上剤を使用。柔道場と剣道場は一体利用することができ、最大4面の試合場を確保することが可能。また、柔道場と剣道場のそれぞれに約150席の観覧席を備え、堺の武道振興の拠点として、日々の稽古だけでなく、昇段審査会や武道大会にも、その他、なぎなたや空手にも使用できる。
また有酸素マシンやフリーウェイト、フリースペースが充実したトレーニング室もあり、目的や体力に合わせたトレーニングにも利用できる。
生まれかわった大浜体育館・大浜武道館にぜひ足を運んでみてはどうか。

【堺市立大浜体育館・大浜武道館】
所在地 堺市堺区大浜北町5丁7―1
連絡先
TEL
072―225―4421
FAX
072―225―4425
最寄駅 南海本線「堺駅」
開館時間 9時~21時
休館日 月1回、年末年始、安全点検日(不定期)
施設利用料金や予約など詳しい情報はHP(https://ohama-arena-budokan.com/)で


5月 議会日程

14日㈮10時 議会運営委員会
18日㈫10時 本会議
終了後 議会運営委員会
20日㈭10時 本会議
終了後 議会運営委員会
25日㈫10時 本会議
終了後 特別委員会
26日㈬10時 議会運営委員会
28日㈮13時 本会議
31日㈪10時 議会運営委員会

 議事の都合により日程などが変更される場合があります。
傍聴などの問い合わせは堺市議会事務局議事課(228―7812)まで。


大阪労災病院
看護週間行事

 大阪労災病院(田内 潤院長・堺市北区長曽根町1179―3)で『看護の日』を記念した「看護週間行事」が5月11日㈫から14日㈮まで開催されます。
 今回の看護協会のテーマは「だから、私は看護をえらぶ」。新型コロナ感染症の影響により行事を縮小して開催される。問い合わせは同病院看護週間行事委員会(072―252―3561)まで。

“大浜体育館”
堺 町並み スケッチ(255)
野 村 亜紀子 

長尾町附近
野 村 亜紀子
 体育館の利用は、40年以上前、子育て中に体力の衰えに驚いて、学校の部活以来、卓球を始め、楽しさと日々の健康管理に都合良く、続ける事が出来ています。建物の老化で新体育館が隣に出来、4月から使用という事でコロナで外出できない今、とても待ち遠しい。学校を使用している他の競技も中止となっているので運動不足になりストレス山盛りなのです。この40年、多少は医者にかかる事は有っても、体調管理と自己の努力によって正常にし、現在、薬(常備)も飲まずに元気でいます。運動が楽しく休みたくない一心で健康と向き合います。この一年半、今迄と違う生活となり、身も心も活力が無くなり戸惑っています。老いが加速しているようで恐ろしい。4月になってコロナ感染者が急増し益々不安になります。
 私の健康の元である体育館、新しい体育館は前より3倍大きくなり、観客席3千席、バレーボールの公式戦も行われるそうなので観戦出来るのも楽しみです。堺市民として嬉しい。一日も早く元通りの生活に戻りますように、体育館の周りの公園、特に浜風を受けた松の木が素敵でした。

国防と神社 (38) 承久の変800年シリーズⅣ

遷幸を余儀なくされた二上皇

大阪観光大学講師 久野 潤

 前回まで承久の変の中心人物である第82代後鳥羽天皇を祀る、あるいはゆかりの神社を取り上げた。今回はその皇子で、皇位を継いだ御二方を取り上げたい。
 第83代土御門天皇は後鳥羽天皇の第一皇子で、建久9年(1198)後鳥羽天皇の譲位により即位。承元4年(1210)異母弟の第84代順徳天皇に譲位し、上皇となる。承久3年(1221)の承久の変において挙兵に参加しなかったが、後鳥羽上皇の隠岐遷幸(現行教科書表記では「配流」)に接し、自らも土佐(現高知県)へ遷幸した。幕府との関係は良好だったため、翌々年に京都により近い阿波(現徳島県)へ移り、寛喜3年(1231)出家直後に崩御。火葬された地(現鳴門市)が「丸山」と呼ばれたことから、火葬塚の北に建立された土御門天皇社が明治8年(1875)丸山神社となる。昭和15年(1940)徳島県の紀元二千六百年記念事業として、火葬塚横に大造営のうえ遷座された際に阿波神社と改称された。同県内で一説に行在所と伝わる阿波市土成町椎ヶ丸の御所神社、そして上皇終焉伝説地である同町上畑の御所神社でも土御門天皇が祀られている。
 第84代順徳天皇は後鳥羽天皇の第三皇子で、歌集のほか「神事を先にし他事を後にす」の行で有名な『禁秘抄』を編纂している。承久の変直前に皇子の第85代仲恭天皇に譲位し、鎌倉幕府討幕の挙兵に積極的に関与した。変後は佐渡への遷幸を余儀なくされ、仁治3年(1242)現地で崩御。佐渡の真野山に火葬されたが、火葬塚を管理していた真輪寺が明治元年の神仏分離(いわゆる廃仏毀釈)で眞野宮(現新潟県佐渡市)となった。順徳上皇については、密かに佐渡を脱出し酒田(現山形県酒田市)に上陸して村山郡御所山(現山形県尾花沢市)に隠棲したという伝説もある。当地の神宮寺により順徳天皇が祭祀され、神仏分離により御所神社となり現在に至っている。
 鎌倉幕府に対する両天皇の対照的な御態度は、源氏将軍すら任意に廃する武家政権の専横が極まる一方で、後鳥羽天皇は源氏軍により平家より回復された神器で即位できた経緯があるという複雑な背景を象徴しているともいえよう。