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大阪ろうさい病院 看護週間行事

 大阪ろうさい病院(田内 潤院長・堺市北区長曽根町1179―3)で『看護の日』を記念した「看護週間行事」が5月10日㈫から13日㈮まで開催される。
 今回の看護協会のテーマは「いのち、暮らしを、守る人」。新形コロナ感染症の影響により行事を縮小して行われる。問い合わせは同病院看護週間行事委員会(072―252―3561)まで。

柔道、剣道などに使用できる武道場


ICT活用や低・脱炭素社会へ
泉北スマートシティ
コンソーシアム準備会

 堺市、南海電気鉄道株式会社、大阪ガス株式会社、西日本電信電話株式会社は「SENBOKU New Design」及び「堺スマートシティ戦略」の理念や「SENBOKU スマートシティ構想」で示すコンセプトに基づき、公民がイコールパートナーとして取組みを推進するSENBOKUスマートシティコンソーシアムの準備会を設立する。
 「モビリティ」、「エネルギー」、「ヘルスケア」、「スマートタウン」、「データ連携」の5グループに分け、ICT技術の効果的活用や低・脱炭素社会の実現などを目指す。各グループごとに協働で事業推進を行う企業・団体・地方公共団体などの会員を募集し、6月27日に開催される準備会では、コンソーシアムのビジョンや方向性を検討。同運営委員会として、実証プロジェクトなどの企画・コーディネートを通じて、新たなサービスの地域定着、持続的発展に向けた取組みを進めていく。
 会員募集、問い合わせはコンソーシアム準備会ホームページ(http://senboku-smartcity.com)から。


“金岡団地”
堺 町並み スケッチ(267)
野 村 亜紀子 

長尾町附近
野 村 亜紀子
 金岡団地が出来たのは、昭和30年。終戦10年目、公団住宅金岡団地。昭和40年前後、同窓生の何人かが結婚し、新居としてここに住み、よく訪問しました。コンクリート造りで無駄の無い間取り。3・4階建ての家賃は4千円~5千円(当時のその年齢の月収は4万円ぐらい)だったと記憶している。
 大阪ろうさい病院からみた団地の全望に圧倒されました。住環境は、緑が多く住み心ちが良さそうで、駅前に住む私にはうらやましい。
 ここ数年、地球温暖化、コロナによる住みにくさに加えて、情報化社会となった現在、平和について考えさせられているのに、他国で戦争が始まり、日々、逃げる人々、美しかった街が爆撃によって破壊される様子や爆発音、銃の音等を見聞きする内、かつて日本もこの状態であったのだと思い出す。B29の爆音、サイレンの音、防空壕の様子、疎開先での生活、わずか3・4才の記憶だけれど、鮮明に! 今、逃げている子供達にも記憶として残るでしょう。そして大人になった時、覚えていて下さい。戦争をしてはいけない事を。一日も早く、人々が日常の平和を得られますようにと、今日も祈っています。

日本画体験型講座
小林美術館

 小林美術館では、ワークショップ「美術館で日本画模写会」を開催する。
 初心者の方におすすめの日本画体験型講座で、図柄は「鳥獣戯画」。
日程
5月14日㈯※各回約2時間
①10時半~「鳥獣戯画」
②13時半~「鳥獣戯画」
会場 小林美術館(高石市羽衣2丁目2番30号)
一階 喫茶・ロビー
受講料 3,800円
定員 各回につき10名
(最低開講人数①②合わせて10名)
問合せ・予約 小林美術館(072―262―2600)※要予約


第80回
深井地区TBG大会

 深井地区TBG(ターゲットバードゴルフ)クラブ(辻尾正照会長)が主催する「第80回深井地区TBG大会」が4月17日㈰、牛飼田池跡スポーツ公園(堺市中区)で開催された。=写真=
 18ホール、ストロークプレーで行われた競技には64名の愛好家が参加、整備された専用グランドではナイスプレーが相次いだ。競技結果は次のとおり。
▽団体の部 優勝 深井水池町TBGクラブ、2位 深井東町TBG倶楽部、3位 深井畑山町TBGクラブ、▽個人男子の部 優勝 白木 誠(深井東町)、2位 小畑 隆(深井北町)、3位 西川利治(深井水池町)、4位 北埜 篤(深井北町)、5位 薮中雄次(深井畑山町)、▽個人女子の部 優勝 伊藤きよ子(深井水池町)、2位 中西照美(深井畑山町)、3位 竹内まち子(深井沢町)、4位 井上幸子(深井北町)、5位 東尾嘉代子(深井水池町)

写真


久野潤氏
日本経済大学
准教授に就任

久野潤氏

久野潤氏
 大阪観光大学国際交流学部専任講師であった久野潤氏(41)は本年4月、日本経済大学経済学部(神戸三宮キャンパス)准教授に就任した。大学では歴史系科目を担当する。
 名城大学や大阪観光大学でも引き続き、非常勤で歴史系科目を担当する。

国防と神社 (50) 陸海軍省設置150年シリーズⅤ

旧幕府側による英霊祭祀構想

大阪観光大学講師 久野 潤

 前回は長州藩の支藩地域における招魂祭、そして現在も当地の護国神社で殉難者・戦没者が英霊として慰霊顕彰し続けられていることに触れた。それらが国家的に行われるようになった象徴が靖國神社であるが、国家的な英霊慰霊顕彰を主張したのはいわゆる官軍側だけではなかった。
  大規模な内戦となった戊辰の役後には、江戸城や京都の東山で戦没者の招魂祭が行われ、次いで幕末以来の殉難者も含めて祭祀されるようになる。そんな中で明治2年(1869)1月より木戸孝允や大村益次郎により東京九段での国家的に英霊慰霊顕彰を行う招魂社創建が建議され、明治天皇の勅許により同年6月に東京招魂社として創建された。これが明治12年に靖國神社と改称され、別格官幣社に列格した。
 英霊慰霊顕彰は、以前の号で触れた楠公こと楠木正成という忠臣顕彰とも深い関係にある。慶応3年(1867)10月の大政奉還の翌月、尾張藩主 徳川慶勝は朝廷に楠社創建の建白を行った。その中で、国家功労者特に一命をなげうった者を神として祀ってきた先例を挙げ、皇都(京都)に国家として楠公を祀る楠社を建立すべきことを説いた。実は慶勝はここで、幕末以来国家に尽くした殉難者・戦死者で「未御収恤不蒙者」すなわち祀られ顕彰されていない者たちを、その楠社の摂社で慰霊することを主張しているのである。
 もしこの通り実現していれば、現在の湊川神社にあたるものが京都に創建され、そしてその境内の一角に靖國神社が建立されたはずであった。しかし翌慶應4年1月に鳥羽・伏見の戦いから戊辰の役が勃発したため、徳川御三家である尾張藩によるこの構想は成らず、「楠社」も楠公戦死地である現在の神戸市中央区に創建されることとなる。ちなみに明治5年5月に落成した東京招魂社の本殿は、旧尾張藩出身の伊藤平左衛門による設計であった。