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リサイタルで深く響き渡るテノールを披露する(6月15日・尼崎 大庄元気むら)(前回からの続き)スカラ国立歌劇場のオペラ 「蝶々夫人」 のコンパルサ役(仕出し)で舞台に立っていたとき、イタリア人にあった契約書が私たち日本人には無かったことから総支配人と掛け合って契約書を手にした翌日、劇場に出向いたら私たちはクビになっていた。この人種差別的な出来事に相容れない世界と現実を目の当たりにした。
第一期となるこのイタリア留学は、私が日本で学び得なかった国際基準の高音域と歌声の在り方を身に付けた画期的な留学となった。
1973年(昭和48年)、コンサート活動が軌道に乗り始めたイタリアで更なる勉強と挑戦をと、強い想いを抱きながらも大阪芸術大学から教員任用の連絡で急遽帰国を決意した。同時に昭和音楽短期大学と東京声専音楽学校からもオファーが来て週の前半を東京で、後半を大阪で過ごす勤務体制は、演奏の場が東京に広がった大きな利点を得たが、大阪との二重生活は経済的に潤わなかった。
1978年(昭和53年)、世紀の名テノール歌手「マリオ・デル・モナコ国際オペラ講座」に推薦されて再びイタリアを訪れた。いつも憧れていた天才オペラ歌手との出合いは、彼の「凄まじい芸術性」と「ドラマティックテノール歌手極限の歌声」、イタリアオペラが求める「声の演技」など、オペラの神髄に触れる驚異的な体験となった。オペラ「トスカ」を、ウイーン在住のアメリカ人ソプラノ歌手と試演の折、手本を示したデル・モナコ氏の歌声と高音は密度の強い輝かしい歌声だった。私はその輝かしい歌声をパワーだと錯覚した。
デル・モナコ氏は常に「ピエーナ・ヴォーチェ」声一杯で歌うことが声の老化を防ぐ唯一の方法と語り、
「A Tanaka con tanta stima ed auguri per la sua generosa voce. Mario del Monaco 1978」
(田中に、あなたの豊かで麗しい声に沢山の尊敬と祝福を。マリオ・デル・モナコ 1978)と、メッセージを頂いた。(次回へ続く)
田中公道・テノール
(Kohdo Tanaka)
2024年 世界を駆ける87歳のオペラ歌手テノールリサイタルを帝国ホテル大阪や米子市公会堂など12都市で40回開催後8月から23回目の南米公演ツアー開催。
中国全土の主要大学を延べ70大学、16芸術団で1,247人の教師と学生の声楽指導で22大学から名誉教授、客座教授の聘書を受ける。
中日文化交流国際賞、邯鄲市文化大使、ブラジル / カルロス・ゴメス・メダル章、カンピーナス市議会・文化功労賞、サンパウロ州立法議会・文化章、ブラジル―日本移民110周年・笠戸丸章、石見銀山文化賞、外務大臣表彰など99回の受賞歴。
海外イヴェント1,095回、内外で約2,650回の公演数を重ねる。
現在88歳。100歳現役をめざす。
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特別養護老人ホーム槇塚荘
クリスマスコンサート
「田中公道テノールリサイタル」
キーボード 田中宏子
12月24日 開演 14時
会場 槇塚荘デイサービス・センター(堺市南区)
主催 社会福祉法人・上神谷福祉会
日時 12月9日㈫~14日㈰
9時30分~17時(入館は16時30分まで)
場所 大阪市立美術館地下2階天王寺ギャラリー(天王寺公園内)
入場無料
主催 大阪府美術家協会
後援 大阪府、大阪市、大阪市教育委員会、大阪市立美術館
「第92回深井地区TBG(ターゲットバードゴルフ)大会」(主催 深井地区TBGクラブ)が、東町又池スポーツ広場(堺市中区)で開催された。
深井各地区から多くの愛好家が参加、スポーツを通じて親睦を深めていた。競技結果は次のとおり。
▽団体の部 優勝 深井東町TBG倶楽部、準優勝 深井水池町TBGクラブ、3位 深井畑山町TBGクラブ▽個人男子の部 優勝 河田東二郎(深井東町)、準優勝 松野 実(深井水池町)、3位 辻尾正照(深井畑山町)、4位 川口 修(深井東町)、5位 中野勝次(深井水池町)▽個人女子の部 優勝 河田美春(深井東町)、準優勝 川口秋代(深井東町)、3位 木村絹枝(深井東町)、4位 竹内まち子(深井沢町)、5位 中西照美(深井畑山町)
写真は各部門入賞者


先月号で「バルーン」を描きましたが、高い所からの景色を、特に仁徳天皇陵の、前方後円墳の形を見る事を期待しましたが、絵の様な形でした。360度の景色は、初秋の少し紅葉し色ずいた木々が、所々に有り、緑いっぱいの景色は美しい。
古墳は大きく目の前に有る。古墳の大きさと形は世界に誇れる物として、堺に有る事が嬉しい。遠くの街に「あべのハルカス」が有り、多分、古墳と思われる緑の小山が点在していたり、遠い遠い山並みなど鳥の目線を体験、ゆっくり揺れるバルーンの乗り心地にも満足で、嬉しい15分でした。長生きをして、これからも、思いもしなかった経験が出来る事、最近は〝生きる〟事について考えない日は無く、毎日、一日の終わりに幸せな気持ちで終わる日は、感謝です。美しい物を見た日、わくわくした日、美味しい物を食べた日、知人と楽しくおしゃべりをした日、良く歩けた日、数えるとキリ無く、幸せを感じる事が有るものです。毎日、感謝の気持ちで終わる事、時間に追い回された若い頃、今の私は、時間が有り過ぎの毎日、幸せな日々に感謝です。
筆者は11月2日、薩摩国一の宮である新田神社にて、軽巡洋艦「川内」を慰霊する会(昨年発足)主催の慰霊祭に参列した。菅野泰紀画伯による鉛筆画が神前に供され、兒玉貴範氏が『海行かば』を奉唱した。
新田神社の祭神ニニギノミコトは当地に新田を営み、千台
(高殿)を築いてお住まいになったと伝わり、この「千台」が転じて川内の地名となったとされる。また境内には、明治7年(1874)明治天皇によりニニギノミコトの陵と治定された可愛山陵がある。そしてこの新田神社は、昭和18年(1943)11月2日に戦没した軽巡洋艦「川内」の守護神すなわち艦内神社の分霊元であった。
大正11年(1922)2月16日三菱造船長崎造船所(現三菱重工長崎造船所)で起工された「川内」は、翌年10月30日進水、大正13年4月29日に竣工した。もともと「加古」型3番艦とされていたが、「加古」がワシントン海軍軍縮条約(大正11年2月調印)のため建造中止され、「那珂」が建造中の大正12年9月に関東大震災で大損害を受けて工程が遅れたため、「川内」型となった。
昭和12年1月18日の新田神社社務日誌には、佐世保碇泊中の「川内」から艦載機が飛来した記述がある。
川内艦載飛行機参拜準備ヲナシ午後一時ヨリ宮司、禰宜、湯田雇やとい共第二鳥居附近ニ於テ待チ受ケタリ 幼稚園児亀山小學校兒童職員一同附近ノ人々共馬場、通路、外苑ニ充満ス 豫定ヨリ約一時間遅レテ午後二時半當社上空ニ達シ落下傘ヲ附シタル賽銭投下アリテ數旋回後帰還、退(ママ)チニ神社ニ於テ宮司以下川内艦武運長久祈願祭奉仕、打電、神符送附
艦載機の記述は、昭和16年1月27日にもある。
豫告アリシ川内艦載飛行機参拝ハ降雨微風ヲ衝イテ午前十時半機影ヲ現シ神社並ならびに外苑ヲ中心ニ數旋回後神社正参道上ヨリ本社ニ進ミテ參拜ノ上仝どう十時四十分歸艦セリ
外苑ニ宮司、石上出仕國旗持參出向合圖あいずヲナシ、社頭ニテハ禰宜飛行機修祓ヲナス
機ヨリ外苑ニ通信筒ヲ落下セリ 今回ハ艦長参拜中止トナリ飛行長渋谷大尉、仝部員山田航空兵曹長搭乘セリ
艦載機による参拝のみならず、上空から神社に賽銭や通信筒を投下するなどの(普段だと無礼な?)行動からも、軍隊と神社との特別な関係がくみ取れよう。