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2月1日 堺市・美原町合併記念式典

 
2月1日、 人口約83万人の新しい堺市がスタートする。
 堺市では、 これまで13次にわたり21町村と合併し、 互いに力を合わせ、 今日のまちをつくってきたが、 美原町との合併は、 昭和37年の登美丘町との合併以来43年ぶり。
 新しい堺市民共通の目標である政令指定都市実現に向け大きく歩み出す。
 市では、 市民とともに新しい堺市の門出を祝うため、 記念式典への参加者を募集。 当日は、 堺シティオペラの記念コンサートも行われる。

日時 2月1日 (火) 午後2時〜
場所 堺市民会館(翁橋町二丁)
申込み
往復はがきに住所、 氏名・年齢・電話番号、 「合併記念式典参加希望」 と記入し、 左記まで (1月10日必着)。 多数の場合は抽選。
合併・指定都市推進部
 〒590-0078 堺市南瓦町3−1


羽衣国際大学学生
堺市議会で特別研修

 12月2日 (木)、 羽衣国際大学 (堺市浜寺南町一丁) の学生27人が堺市議会を訪れ、 同市の行政のしくみや現状を学んだ。
 これは同大学客員教授の加藤均氏が受け持つ 「日本の法と政治」 の特別研修として実施されたもの。
 午後1時、 議会委員会室で、 議会事務局議事調査課木下雅博課長代理が講師となり、 堺市の概要を説明。 続いて合併・指定都市推進部太田博通理事が、 2月1日の美原町との合併を控え、 これまでの経緯や必要性、 また政令指定都市移行の重要性などをわかりやすく講義した。 また、 保険年金管理課黒田昌博主査が国民年金・学生納付特例制度を具体的に解説した。
 その後、 本会議場、 高層館展望ロビーを見学した。
 松井隆平さん (聴講生専攻・浜寺南町在住) は 「自分が暮らす街の行政を身近に感じることができました。」 杉本愛さん (観光レジャーコース3年・鳳在住) は 「なぜ合併が必要なのか、 政令指定都市移行にはどんな意味があるのかが、 よくわかりとても勉強になりました。」 と感想を述べた。


本会議場を見学する学生たち


宗野起代子
遺歌集が発刊


故 宗野起代子さん

 堺歌人クラブ理事だった 「宗野起代子遺歌集・心の鈴」 が三回忌に短歌新聞社から発刊されました。
 移り来し伊賀山里の
  夕ぐれに生あれて
 そだちし堺を恋いほしむ
 そうの・きよこさんは大正8年堺生まれ、 大美野在住の耳鼻科医師、 故 宗野正氏夫人。 大阪府警の婦人警官第3期生で活躍、 NHKテレビ 「私の秘密」 に出演で知られ、 平成8年まで堺東南ロータリークラブ事務局を担当していました。
 遺族は三重県安芸郡芸濃町北神山356 小西悦子さん。


堺 町並み スケッチ (60)



“菅原神社随身門”

野 村 亜紀子 

 初もうでというより十日戎で賑わう神社です。 随身門の朱赤が美しい。 祭神は、 菅原道真・天徳日命・野見宿称。 元は常楽寺という寺だったのが、 堺の浜辺に流れついた道真自作の木造を、 この寺の僧が社殿を造り祀ったのが、 堺の天神さんの初まりと言われています。 平安時代の創建とありますが建物は随身門以外は戦災で焼けたそうで社殿は、 その後建てられたものだそうです。
 家に近いこともあって、 毎年十日戎には、 仕事の繁栄を願って参ります。 子ども達が小さい頃はお参りの後、 この門の前にあるお好み焼屋さんで遅い夕食をとるのが家族の楽しみだったけれど今は我が家の行事では無くなり、 買物ついでに参ったりして、 月日の移り変わりを味わっています。 今年からは、 孫を連れて、 又我が家の行事にしてみようかなんて勝手に考えています。
 子どもの頃は早く大人になりたくてお正月には幾つになったと喜こび、 二十代は結婚年令にあせり、 三十代は子ども成長に月日を感じ、 今は、 残りの人生を想像します。 正月早々なんですが、 余命について考えることもあったりして、 又この一年悔いの無い生き方が出来ることを祈ります。


甘辛小欄 (12)

 以前より京都の知人からおもしろい会社があるのでと聞いていたので先日訪ねた。 京都市南区に本社がある日本電産鰍ニいう、 広大な敷地に22階建ての堂々たる本社であった。 受付のガードマンやビルの一階の受付案内の女性も若く、 左右の壁には100号以上のヒマワリの油絵が3〜4枚掲げてあり、 又地下1階に下るところに広田稲氏の競走馬の油絵を掲げていた。 この会社は小型精密モーターでは、 世界の7割のシェアを持って、 現在グループ企業110社、 従業員8万人といわれている。 本社ビルの1階の左手前に古ぼけたプレハブ小屋が展示されている。 永守社長28歳頃、 4〜5人で起こした会社が、 今、 京セラに迫ろうとしている。 永守社長は1年365日、 1日も休まず働く、 このものすごいバイタリティはどこから来るのか。 貧しい農家に生まれ、 母が朝から晩まで働き、 家計を支え、 小さい頃から母より 「努力に勝るものはない」 と 「怠けたらあかん」、 それが原点であるらしい。 今は遠く20階の社長室から京セラの本社と母が眠っている墓地を眺めながら、 母の言った言葉を忘れず働いているのだという。 私も本社を訪ねて母子の絆の温かさを感じた。
 中百舌鳥町に本社がある日本ピローブロック製造鰍ェ美原町平尾に移転することになり、 堺市は昭和50年頃、 中百舌鳥副都心計画をしたが、 バブルの影響やリーダーがいない等の為、 虫くい状態になった。 随分の金を基盤整備にかけている。 残念な思いである。 私も先代社長の小林保氏を通じて政治の道に入り、 昭和43年、 自由民主党堺支部青年部を作ったのである。 今思うと小林保先生がおられたら中百舌鳥駅前もずい分変わったろうと思う。

南海通信社代表
中 村 泰 彦