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やっと逢えたね

〜ダーウィンの海で祖父母が再会〜

メディカルライター 伊 藤 理 恵

ダーウィンの海に眠る河原眞治氏と美千子氏
ダーウィンの海に眠る河原眞治氏と美千子氏
  「おばあちゃん、
  おじいちゃん、
   待たせてごめんね」
 

 平成27年8月8日、私は祖母の遺言どおり、祖母の骨を祖父が眠るオーストラリア北部の都市、ダーウィンの海に流した。祖母が亡くなってから10年超。忘れていたわけではない。ただ、ダーウィンはあまりにも遠すぎた。「早く、行かなきゃ」と思いつつも、時だけが過ぎていった。
 そんな時、私は偶然、昨秋の「堺まつり」の協賛事業で、大阪・堺泉北港に入港した海上自衛隊護衛艦「はたかぜ」に乗艦した。艦内では、梅崎時彦艦長(現・大湊海上訓練指導隊司令)らが乗艦者に対して、「はたかぜ」が昨夏、ダーウィン沖で実施された多国間海上共同訓練に参加した模様をスライドで説明していた。私はそこに映し出された海をみた瞬間、なぜか思わず、梅崎艦長に、「この海で私の祖父は戦死したんです」と声をかけた。
 聞けば、「はたかぜ」は艦上で、先の大戦で旧日本軍と豪軍の壮絶な戦闘による両国の戦死者を弔う日豪合同慰霊祭を行ったという。その際の写真を梅崎艦長から見せてもらった。ダーウィンの青い空にたなびく16条の旭日旗。海に向かい敬礼する「はたかぜ」乗組員と豪海軍人。
 思えば、旧海軍航空隊に所属していた祖父。昭和18年8月にダーウィン沖のティモール海を偵察飛行中に豪軍機に撃墜され、今も海中に眠ったままだが、16条の旭日旗や海上自衛隊員の姿をみて喜んだに違いない。
 「祖母を祖父の待つ海に連れて行こう」−−覚悟が決まった。
 そこからは早かった。梅崎艦長を通じて、護衛艦いせ後援会・潜水艦救難艦ちはや後援会会長で大阪府郷友会会長の加藤均氏や「ダーウィン日本語放送」ラジオパーソナリティの平山幸子さん、歴史家のトム・ルイス氏らをはじめ、多くの人と出会い、散骨の実現に向けて様々なサポートをしていただいた。祖父が亡くなって72年目の夏、くしくも戦後70年目の年に、祖父と祖母の再会が叶った。
 しかも、散骨には私たち家族だけでなく、オーストラリアからも多くの人が参加してくれた。北部準州政府主席大臣のピーター・スタイルズ氏のほか、ダーウィン市長、豪外務省北部準州部長、州議会議員、市議会議員、豪海軍人と牧師、日豪友好協会の会長、副会長など……。
 実は地図をみると、ダーウィンと日本は一直線上に位置している。堺泉北港から始まった私の散骨の旅は、青い海でまっすぐ繋がっているダーウィン港でいったん終わった。
 「ねえ、おじいちゃん、おばあちゃん、ただ逢わせて欲しかっただけじゃないよね。私に、『オーストラリアの人と仲良くしなさい』って教えようとしたのだよね」。これからは、いつでも祖父母に逢いにいけるように、この海の平和を守る旅が始まる。

家族により散骨が行われ、花が海に捧げられた
家族により散骨が行われ、花が海に捧げられた

人となる道 十善戒の勧め

東洋大学学長 竹 村 牧 男

 日本人は、公徳心が希薄であるとよく言われます。「旅は恥のかき捨て」という言葉もあるように、知り合いの前では殊勝そうに振る舞っても、知らない人たちの前では平気でどんなことでもしかねないのが日本人の実情です。明確な客観的・普遍的な善悪の基準を持っていないので、行為の選択ももっぱら実利に基づくことがしばしばのことでしょう。
 このことは、日本人のかなり根深い国民性になっているように思われます。というのも、仏教の世界でも、日本仏教においてのみ、肉食妻帯の出家僧が世間を平然と闊歩しているからです。そもそも戒律は大乗戒のみ守ればよいとしたのは、三国仏教史上、最澄のみでしょう。やがて親鸞が出て、肉食妻帯を厭わない仏教が現われますが、それは真宗のみのことであり、他の仏教各宗派ではけっしてこれをよしとしたわけではありませんでした。しかしその後、明治初期に、政府が「肉食妻帯勝手たるべし」と通達してからは、次第に各宗でも本来の戒律は棚に上げ、僧侶の在家的生活は普通のことになってしまいました。
 もちろん、このことがマイナス面ばかりだというわけでもありません。ただ、古来、仏教の再活性化を求めて新仏教運動を起こす高僧はほぼ、まず戒律の復興を唱えるのでした。その一人に、江戸時代の慈雲尊者がいます。慈雲は、仏教徒は釈尊在世時に帰るべきだとし、出家者には釈尊が制定された戒律をそのまま守ることを要請し、それを「正法律」と呼びました。一方、民衆一般には、老若男女、国内外を問わず、誰にでも適合しうる普遍的な徳目を謳う「十善戒」を守るべきことをひとえに勧めたのでした。それは、確かに人生上のよき指針となるものと思われますので、ここにご紹介しておきたいと思います。
 不殺生(殺さない)・不偸盗(盗まない)・不邪淫(よこしまな男女関係を持たない)〔以上、身体の行為〕、
 不妄語(嘘をつかない)・不綺語(飾り立てた言葉を言わない)・不悪口(粗暴な言葉を使わない)・不両舌(仲違いさせる言葉を言わない)〔以上、言葉の行為〕、
 不貪欲(貪らない)・不瞋恚(怒らない)・不邪見(誤った見方を持たない)〔以上、心の行為〕
 興味深いことは、慈雲がこの戒律を、仏となるために持(たも)つのではなく、人となるために持つのだとしたことです。仏になることを求めるとき、そのことはかえって貪欲を育て、執着を深めることにもなりかねません。仏教は人が「人となる道」だという慈雲の主張には、かなり深い意味があると思われますが、それはともかく日本人は、人間として生きるということはどういうことなのかを、慈雲の唱える「十善戒」に深く学ぶべきだと思われるのです。