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堺市 迅速な対応
熊本地震への支援

堺から支援のため熊本へ派遣される職員
堺から支援のため熊本へ派遣される職員

 堺市は熊本地震の被災支援において迅速な対応を行った。同市では、危機事象へ対応するため、勤務時間外の夜間や休日にも職員2名が常時当直しており、4月14日午後9時26分の地震発災直後から、この当直職員に危機管理室職員を加えて情報収集に努めたことが迅速な対応につながった。
 4月16日未明に発生した本震の被害状況を受けて、市長を本部長とする堺市救援対策本部を設置、対応方針を決定するとともに、指定都市市長会等と連携し、緊急消防援助隊や災害派遣医療チーム(DMAT)、応急給水応援などへ職員が派遣された。
 また、翌日の17日には被災地からの要請に応じて、堺市が備蓄していた食糧品、生理用品などが支援物資として熊本市に輸送された。
 現在も支援は続いており、先の支援のほか、下水管路の調査や建物の応急危険度判定、避難所の運営など、様々な業務に対して職員が派遣されている。5月17日時点で42名の職員が被災地で支援業務に従事している。
 また、被災者の受け入れも行っており、被災関係者から、これまで17件の相談が寄せられ、そのうちの3世帯が、堺市が無償提供する市営住宅に避難している。
 避難者が、堺市での生活をスムーズに始められるよう、専任の生活支援員が、小学校への転入や保育所への入所などの相談を受けて、それぞれの実情に応じたワンストップ支援を行っている。

堺市消防局の援助隊が被災地での支援活動に参加
堺市消防局の援助隊が被災地での支援活動に参加

 今後も堺に避難される方に対しては、「おもてなしの心」で、避難者一人ひとりに寄り添った支援を行っていくという。
市民からも様々な支援があり、5月22日時点で12,629,369円の義援金が寄せられた。
 また、市民からは、物資の支援ができないかという声が多く寄せられた。堺市がその市民の熱い志を被災地へ届けることとし、被災地のニーズを踏まえ、トイレットペーパー、紙おむつ、ウェットティッシュの3品目に限定した物資が受け付けられた。この物資は泉州の9市4町からの支援物資とともに、5月16日に熊本市に輸送された。義援金は、引き続き受け付けられている。

堺市の
災害対策も進む

 竹山修身堺市長は「熊本地震でお亡くなりになられた方々のご冥福をお祈りするとともに、ご遺族の方にお悔やみを申し上げます。また、負傷された方、被災された皆様に心よりお見舞いを申し上げます。
 被災地の復旧・復興に向けては継続的な支援が必要です。今後とも政令指定都市市長会等と緊密に連携し、できる限りの支援をきめ細かく行っていきたいと思います」としたうえで、今後の堺市の災害対策について「堺市では、これまでも、市民の皆様の生命と財産を守るため、ハード・ソフト両面にわたる対策に取り組んできました。
 今年度は災害対策本部の実践力の強化や、避難所運営ワークショップの実施による地域防災力の強化の事業を予定しています。事業の実施にあたっては、熊本地震を教訓に、法令・国の指針等の動向や被災地へ派遣した職員の報告等も踏まえ、より一層安全・安心のまちづくりに取り組んでまいります。
 また、市民の皆様にも、ご自宅の耐震化や家具転倒防止対策、ご家族との連絡方法や避難場所の確認、飲料水や食料品などの備蓄、非常持ち出し品の準備など、ご家庭でできる備えと、隣近所での助け合いとつながりの強化など地域の連携による共助の取組みをこれまで以上にお願いしたいと思います」と語った。

堺市をはじめ泉州9市4町の支援物資が熊本へ出発(5月16日、堺市役所で)
堺市をはじめ泉州9市4町の支援物資が熊本へ出発(5月16日、堺市役所で)

自衛隊は朝鮮戦争によって作られた

元海上自衛隊呉地方総監
金沢工業大学虎ノ門大学院 教授

伊 藤 俊 幸

 北朝鮮が党大会を開き「核保有国」を宣言、金正恩は新たなポスト、「党委員長」に就任しました。現代社会にあって、私たち民主主義先進国とは全く違う考えの国が隣にいる、と今更ながら思われた方も多かったのではないでしょうか。今月は「自衛隊は朝鮮戦争によって作られた。」です。
 昭和二十二年五月三日、日本国憲法が施行されました。ご承知のとおり憲法九条は一項で、『国権の発動たる戦争』『武力による威嚇』『武力の行使』を永遠に放棄し、二項で、前項の目的を達するため『陸海空軍その他の戦力』は保持せず、『国の交戦権』を認めていません。施行当時のマッカーサーを長とするGHQと日本政府は、日本を完全に武装解除し、二度と戦争ができない国にしようとしたのです。
 ところが、三年後の昭和二十五年六月二十五日、朝鮮戦争が勃発し状況が一変します。マッカーサーは駐留米軍を朝鮮半島に出動させなければならなくなり、日本の治安維持任務を引き継ぐ別の組織が必要となりました。その結果作られたのが「警察予備隊」です。
 更に十月、元山上陸作戦を決断した国連軍は、海上保安庁に対し、掃海作業を要請します。数日後には「日本特別掃海隊」と呼称された部隊が元山沖で掃海作業に着手し、最終的に、二七個の機雷を処分しました。
 しかし、不幸にも一名の戦死者を出すことになり、この事案をめぐり、命令に従わず帰投する部隊がでることになります。そのような経緯も含め「私的犠牲をも厭わない組織」が必要とされ、「海上保安庁の外局として「海上警備隊」が作られます。朝鮮戦争は、武装解除を求めた憲法九条の「解釈変更」を余儀なくさせてしまったのです。
 すなわち、憲法上「必要最小限度の実力行使は可能」という解釈です。昭和二十九年七月一日「防衛庁設置法」と「自衛隊法」が施行され、「警察予備隊」と「海上警備隊」は「陸・海・空自衛隊」になりました。今年で六十二年が経ち、法的安定性のある法律といってよいでしょう。