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10月3日、ベトナム社会主義共和国の海軍艦艇「チャン・フン・ダオ」(指揮官 レ・ホン・チェン海軍上級大佐、艦長 グエン・バン・ドン海軍中佐、乗員約140人)が堺泉北港に入港した。 |
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チェン上級大佐は「日越国交樹立45周年の記念としてベトナム人民海軍が日本を訪問するのははじめてのことです。今回の訪問を機に、ベトナム海軍と海上自衛隊との友好関係が促進するとともに、この成果が両国の信頼関係を深める事に貢献することを確信しています」。 加藤均会長は「今回のベトナム艦艇の入港はスタートであり、今後もこの様な平和に対する認識を高める交流を永く継続し、両国の未来の発展につなげていきたい」と話した。 |
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普段は非公開の堺市内にある寺院仏閣などの文化財が期間限定で公開される「秋季堺文化財特別公開」が開催される。 |
韓国主催国際観艦式への招待を日本が拒否し、海自艦艇の派遣を見送りました。事の発端は、「自国と韓国の国旗だけをマストに掲揚することを原則とする」と通知した旨を、韓国海軍が公表したことから始まりました。 国際儀礼上、無礼極まりない招待でした。その結果、十四の被招待国のうち、当日のドタキャンもあり参加したのは十か国。十か国のうち、米国、ベトナム、インドネシアの三か国は軍艦旗でもある国旗を、それ以外の七か国は、軍艦旗を掲げました。つまり参加国全てが軍艦旗を揚げたのでした。青瓦台(韓国大統領府)の横車に、韓国海軍も忸怩たる思いだったでしょう。 さて今回は、自衛艦旗の成立過程について考えてみましょう。 海上自衛隊は、昭和二七年四月二六日、海上保安庁外局として「海上警備隊」が設置され、同年八月には、新たな組織「保安庁・警備隊」として再編成されたことから始まります。その当時の保有艦艇には警備隊旗が掲げられていました。 昭和二九年に「防衛庁・海上自衛隊」として新たに編成されることになり、その前年の十一月から、旗章の見直しが始まりました。部内のみならず学者や画家、その他部外の人からの聞き取りをしましたが、多くが「旧軍艦旗」を希望していることが判明しました。 昭和二九年四月、希望はそうであっても、国内外情勢はこれを許す状況にないことから、「直線的・単色・一目瞭然・すっきりしたもの。一見して指揮を高揚し海上部隊を象徴するもの。海上において視認が利くもの」という三要件で旗章を考案することになりました。 それでも東京学芸大学は、「旧軍艦旗しかない」との回答。その後も図案の研究が続きましたが、ついに米内穂豊画伯に図案の制作を依頼することになりました。画伯は十五日間悩みぬいた末「軍艦旗は黄金分割による形状・・・これ以上の図案は考えようがない。」と旧軍艦旗そのままの寸法で一枚の図案を書き上げました。画伯の作品は、最終的に六月九日閣議決定され、吉田茂首相は、「世界中でこの旗を知らぬ国はない。どこの海にあっても日本の艦だと一目瞭然で誠に結構だ。」と述べたといいます。 自衛艦旗は、戦後熟慮の上に作られた、自衛官の誇りなのです。 |