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大阪労災病院
看護週間行事

=写真上=
 医療従事者への「感謝の輪」が広がる中、5月13日から15日まで、大阪労災病院(田内潤院長・堺市北区長曽根町1179―3)では「看護の日」を記念した看護週間行事が開催された。
 今年の看護協会のテーマは「看護の心をみんなの心に」。
 期間中、入院患者・外来患者への記念品のプレゼント=写真上=や「正しい手洗いとマスクの装着方法」、「手作りマスクの作り方」、「嚥下食の紹介」など新型コロナウイルス感染症に関する情報を紹介したパネルが展示された。=写真下=(ともに大阪労災病院提供)
=写真下=

外出できなくても
健康的な生活を

 新型コロナウイルス感染症や悪天候などの影響で、外出できず、家にいる機会が増えているこの時期。加齢に伴って様々な身体機能が低下する「フレイル」を予防するためには、日頃の生活を工夫する必要があります。ちょっとした運動を日常生活に取り入れて、バランスのよい食事を心がけ、生活リズムを整えましょう。


 菅原神社(池田典子宮司、堺区戎之町東)の社務所内の「日本庭園」で開催される「ホタル観賞会」は、今年、コロナウイルス感染症の影響で中止になりました。


“静かな街”
堺 町並み スケッチ(244)
野 村 亜紀子

静かな街
野 村 亜紀子
 出歩いてはいけないので近くの「堺駅」前へ。街に人が居ない!。異様な景色、静まりかえった街。横断歩道のメロディーがむなしく響く、無人ともいえる街に五月晴れは悲しい。以前、風景画には人物を入れなかった。風景というものが建物や、山川緑から美しいと思わせると思っていたから。しかし、そこから伝える物が何か足らない。街を作っている人々に目を向け描くと街に動きが出る、絵が動くのです。それなのに目の前の街が無人。令和2年、街が無人となった事は忘れてはらない出来事です。そしてこれから、いつまで続くのでしょう。仕事にならない人々は一日一日と長びく日々、生活の不安で苦しまれている事が思われて胸が痛みます。
 5月16日、39県で緊急事態宣言が解除されました。大阪は対象外です。次の日、大型スーパーに出かけたが駐車出来ない程の人出で、他店まで行く事になりました。3日に一度の買い物です。皆もそうだったのでしょうか。この状態で新規感染者が出なければいいのですが、油断する事無く、自分で自分を守る。この日の感染者は大阪ゼロ(69日ぶり)だったのですが。

国防と神社(28)

『日本書紀』シリーズⅩⅣ
疫病との戦いゆかりの神社 前編

大阪観光大学講師 久野 潤

 第10代崇神天皇の時代の疫病への〝対策〟が、伊勢の皇大神宮(天照大神を祀る内宮)鎮座につながったことは本紙3月号で述べた。崇神天皇の皇居と伝わる磯城瑞籬宮については、志貴御縣坐神社(奈良県桜井市)境内に「崇神天皇磯城瑞籬宮趾」碑がある。
 さて、『日本書紀』にはそれ以外にも、疫病蔓延の事例が登場する。第29代欽明天皇13年(552)、朝鮮半島の百済より仏教が伝来。大連(朝廷で軍事を担当)の物部尾輿などの反対で国家としての仏像礼拝は断念されたが、大臣(天皇の政治を輔佐)の蘇我稲目が仏像を私邸に安置し寺院としたところ、疫病が起こった。国中に蔓延し、しかも長引いたため若死にする人が「愈多、不能治療」という惨状となる。ここで尾輿らの奏上により仏像は難波の堀江(現大阪市の大川)に流し捨てられたが、次の第30代敏達天皇の時代に再び国中で疫病が発生。それは稲目の子・蘇我馬子が、敏達天皇14年(585)病気となった際に再び仏像を礼拝して延命を願った時のことだ。そこで尾輿の子・物部守屋が蘇我氏の寺を焼き討ち、焼け残った仏像はやはり難波の堀江に捨てられた。すると今度は悪性の天然痘で亡くなる者が国中に満ちあふれ、敏達天皇や守屋までが罹患し、敏達天皇は同年崩御。この時の皇居は訳語田幸玉宮で、桜井市戒重の春日神社境内に伝承地とする案内板がある。
 さらに第37代斉明天皇の時代にも、再び天皇も罹患する疫病の記述が見える。唐・新羅連合軍の攻撃で滅亡した百済の再興を支援すべく、斉明天皇は難波を経て斉明天皇7年(661)朝倉橘広庭宮に遷幸。宇佐神宮を勧請した恵蘇八幡宮(福岡県朝倉市)は、このとき武運長久を祈願して創建されたと伝わる。ところが、近くの朝倉山の木を木材にしたことで神の怒りを買って宮殿が倒壊。さらに宮中に鬼火が現れて役人や近侍の多くが病気で亡くなり、斉明天皇も崩御した。皇太子であった第38代天智天皇が喪に服した場所とされる「朝倉木丸殿舊蹟」碑が、恵蘇八幡宮境内にある。天智天皇も白村江の戦いで大敗して百済復興を果たせず、その無念を物語るように天智天皇の同母弟・第40代天武天皇の時代、恵蘇八幡宮に斉明天皇・天智天皇が合祀されている。