第10代崇神天皇の時代の疫病への〝対策〟が、伊勢の皇大神宮(天照大神を祀る内宮)鎮座につながったことは本紙3月号で述べた。崇神天皇の皇居と伝わる磯城瑞籬宮については、志貴御縣坐神社(奈良県桜井市)境内に「崇神天皇磯城瑞籬宮趾」碑がある。
さて、『日本書紀』にはそれ以外にも、疫病蔓延の事例が登場する。第29代欽明天皇13年(552)、朝鮮半島の百済より仏教が伝来。大連(朝廷で軍事を担当)の物部尾輿などの反対で国家としての仏像礼拝は断念されたが、大臣(天皇の政治を輔佐)の蘇我稲目が仏像を私邸に安置し寺院としたところ、疫病が起こった。国中に蔓延し、しかも長引いたため若死にする人が「愈多、不能治療」という惨状となる。ここで尾輿らの奏上により仏像は難波の堀江(現大阪市の大川)に流し捨てられたが、次の第30代敏達天皇の時代に再び国中で疫病が発生。それは稲目の子・蘇我馬子が、敏達天皇14年(585)病気となった際に再び仏像を礼拝して延命を願った時のことだ。そこで尾輿の子・物部守屋が蘇我氏の寺を焼き討ち、焼け残った仏像はやはり難波の堀江に捨てられた。すると今度は悪性の天然痘で亡くなる者が国中に満ちあふれ、敏達天皇や守屋までが罹患し、敏達天皇は同年崩御。この時の皇居は訳語田幸玉宮で、桜井市戒重の春日神社境内に伝承地とする案内板がある。
さらに第37代斉明天皇の時代にも、再び天皇も罹患する疫病の記述が見える。唐・新羅連合軍の攻撃で滅亡した百済の再興を支援すべく、斉明天皇は難波を経て斉明天皇7年(661)朝倉橘広庭宮に遷幸。宇佐神宮を勧請した恵蘇八幡宮(福岡県朝倉市)は、このとき武運長久を祈願して創建されたと伝わる。ところが、近くの朝倉山の木を木材にしたことで神の怒りを買って宮殿が倒壊。さらに宮中に鬼火が現れて役人や近侍の多くが病気で亡くなり、斉明天皇も崩御した。皇太子であった第38代天智天皇が喪に服した場所とされる「朝倉木丸殿舊蹟」碑が、恵蘇八幡宮境内にある。天智天皇も白村江の戦いで大敗して百済復興を果たせず、その無念を物語るように天智天皇の同母弟・第40代天武天皇の時代、恵蘇八幡宮に斉明天皇・天智天皇が合祀されている。 |