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自衛隊大阪地本本部長
就任挨拶

 自衛隊大阪地方協力本部 本部長 濱田博之 陸将補は9月1日、堺を訪れ、本部長としての就任挨拶を行うとともに、護衛艦いせ・潜水艦救難艦ちはや後援会の加藤均会長と談話を行った。
 濱田氏は、8月25日付で自衛隊大阪地方協力本部本部長に就任、加藤均氏との会談の中で、「大阪各所の軍人墓地では、管理者の高齢化により、維持・管理が困難であるところが多い」と語り、加藤均氏は「今後は、大阪郷友会が近傍の駐屯地と連携しながら英霊墓地における維持・管理の手助けができれば。南河内地方においても、新たに郷友会が結成されており、年内には同支部の慰霊祭が開催される予定である」などと今後の連携方針を確認した。
 濱田氏はこれまで、陸上幕僚監部装備計画部航空機課長、熊本地方協力本部長、統合幕僚監部報道官などを歴任。

濱田博之本部長(右)と加藤均会長
濱田博之本部長(右)と加藤均会長

アクリート社長
中塚氏が就任

濱田博之本部長(右)と加藤均会長
中塚雅教氏
 水環境設備関連の総合会社、株式会社サニコン(本社 堺市北区・創業1970年)のグループ会社である株式会社アクリート(堺区昭和通5―73―6)では、8月27日の取締役会で株式会社サニコンの社長、中塚雅教氏が代表取締役社長に就任した。
 中塚新社長は「誠心誠意社業の発展に努力する所存です」と抱負を語った。
 なお、山田光前社長は株式会社サニコンの顧問に就任した。
 アクリートは浄水システム設計・施工・メンテナンス、産業用水処理プラントエンジニアリング、非常用浄水機・省エネ機器の販売など、様々な業務を手掛けている。
http://www.sanicon-group.com/accrete

10月 議会日程

13日㈫10時30分 竹山修身前市長の選挙資金問題等調査特別委員会
14日㈬13時 議会力向上会議
16日㈮10時 持続可能で魅力的なまちづくり調査特別委員会
20日㈫10時30分 竹山修身前市長の選挙資金問題等調査特別委員会
30日㈮10時 大都市制度・広域行政調査特別委員会
 議事の都合により日程などが変更される場合があります。
 傍聴などの問い合わせは堺市議会事務局議事課(228―7812)まで。

“スーパーマーケット”
堺 町並み スケッチ(248)
野 村 亜紀子 

大仙公園
野 村 亜紀子
 この20年程で、急速に建物の高層化が進むと同時にスーパーマーケットが、住居近くに5ヶ所ぐらい出来、その日の気分で次々巡っています。50年前は商店街の中のマーケットだけでした。幼児連れの私は、店の人達が気遣って野菜など宅配していただいたりして、今では考えられない親切に助けられていました。そのマーケットが無くなり周辺の商店街も寂れスーパーマーケットが、次々開設し買物の様式が変わってしまい50年の歳月の長さを実感します。
 街が生き物のように変っていくと、その時代の風景として形造られるのを、20数年描き続けていますが、描いても、描いても新しい景色が出来てくるので止める事が出来ないのです。ただ悔しいのは、長い年月をかけた味わい深い建物が壊されてしまうこと。老築化されたものの運命ですが、もったいないと思ってしまいます。
 この秋は短いと予報されました。では冬は長いのでしょうか。この冬、あの美しい雪景色が見てみたい。内川・土居川や路面電車の風景が白く別世界になり素敵なのです。〝寒い〟が付いてきますが。

第百十八回
無縁物故者慰霊祭

=写真=
 9月22日の秋分の日、「第百十八回無縁物故者慰霊祭」が主催する㈱新生社の葬儀ホール「やすらぎ庵」においてしめやかに営まれた。=写真=
 この慰霊祭は、一人寂しくこの世を去られた方々の霊を慰めるため、新生社 加藤均代表取締役社長が祭主となり、50年以上に渡り毎年春秋の彼岸の中日に営まれてきたもので、祀られた御霊は334柱にのぼっている。
 加藤均祭主は「無縁物故者の御霊がいつまでもやすらかであられますよう、私の生ある限りこの法要を続けてまいります」と霊前に誓った。
 今回も前回同様、コロナ対策のため一般参列者の参列は無く、関係者のみが参列し本光寺の足立英修住職による読経のもと、物故者の冥福を祈りながら献花を行った。

歴史的建築を幻燈で見る

 「幻燈で見る懐かしい明治・大正の建築~旧大浜潮湯別館(南天苑)と辰野金吾の建築」大阪市中央公会堂、日銀大阪支店、堺公会堂、旧浜寺停車場等の幻燈上映。10月17日、11時から。堺市立東図書館(北野田駅前)。参加自由、当日直接会場へ。講師・明治建築研究会代表柴田正己氏(090―4289―1492)。

国防と神社(32)
『日本書紀』シリーズⅩⅧ

日清戦争後のコレラと増田神社

大阪観光大学講師 久野 潤

 『日本書紀』に描かれたような、疫病蔓延にあたり自らを省みて祭祀から行いを正した先人たちの有り様は、近代に入ってからも日本人に受け継がれていたことを先に述べた。100年前スペイン風邪に際して、防護巡洋艦「矢矧」に矢作神社から艦内神社が分霊されたこともそのひとつだが、今回は増田敬太郎巡査のことを取り上げたい。
 明治28年(1895)4月の日清戦争集結で将兵が外地から帰還してきたため、日本全国でコレラが蔓延。この年のコレラによる死者が4万人を超える中、7月には佐賀県入野村(現唐津市)高串地区でも数日の間に患者74名、死者9名と猛威を振るった。当時の衛生行政は警察が管轄していたため、コレラ防疫で高串に派遣されたのが増田巡査であった。
 巡査になり唐津警察署へ配属されたばかりの増田敬太郎は学識と正義感あふれる人物で、交通手段もなく山道を越えて7月20日高串に到着。当初は住民の誤解などもあった中、患者隔離などの防疫や手当て、死体処理などに献身した。しかし三日間に及ぶ不眠不休の作業が仇となって増田巡査自身も7月23日コレラに罹患、急速に容態が悪化し翌日殉職する(享年25)。増田巡査による必死の指導の甲斐あって、高串では数人の患者を残すのみとなり、また「余は死してもこの防疫の為に尽くさん、この地向後悪疫を入れしめず」という遺言通り、その後は一人の罹患者も出さなかったという。
 「巡査大明神」と呼ばれるようになった増田巡査の墓所は故郷の熊本県泗水村(現菊池市)にあるが、分骨が高串に埋葬され、そこに「故佐賀県巡査増田氏」碑が建立された。翌明治29年には拝殿が完成、のち「増田神社」となり、警察関係者に広く崇敬された。現在では佐賀県そして唐津市でも知る人が少なくなったようだが、今般のコロナ禍の中で、神社での祭典の有無だけでなく、人々が顕彰の志をもち続けてきたかどうかが問われよう。