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播州妻鹿の地へ

時空を超えて先祖の偉勲を探訪
片桐棲龍堂 片桐平智

 重陽の節句の日、播州黒田武士の館を運営しており、史書「妻鹿城」の刊行に関与した郷土歴史家の神澤輝和様から御文をいただきました。これによると、薩摩氏長の末裔と伝承される我が祖先の薩摩妻鹿一族が、1441年の嘉吉の乱により、下剋上で足利義教を謀殺後、忽然と歴史上から姿を消したことから、薩摩妻鹿嫡流家を探され、鹿児島図書館や蛤良地域、岡山など、各方面に居住の妻鹿及び目賀姓の方々に尋ねられても真相を究明できなかったそうです。そんな折、偶然、私のHPに出会われて、当家伝来の妻鹿孫三郎出陣の掛け軸絵に描かれている長宗の軍旗、着用鎧の銅や草擦の家紋に島津十字が描かれていたことから、薩摩・島津氏長の末裔であると納得されたようです。この掛け軸絵は代々、嫡流で大切に継承されており、現存品は江戸中期に堺の狩野派絵師が作成した写しであると推測されています。この他にも妻鹿にゆかりのある遺品は、文禄5年の大地震で多くが失われましたが、家紋の表紋妻鹿扇及び裏紋の島津十字は約700年間継続して、金蒔絵の食器服紗などは江戸時代のものが残存しています。さらに、島津義久を堺の浦から逃がした御礼でいただいた、当時の布団の藍布も関ケ原の戦いの銃痕を繕った後、我が家の暖簾として使用しており、今でも島津十字の家紋が鮮やかに、お客様を迎えています。
 一方、遺品のみならず、倭寇から伝来したとされる古代中国の軍陣医学も伝承しています。「太平記」にも記されているように、妻鹿孫三郎長宗が、六波羅勢3000人に包囲される中、率いた17人の内、長宗1人のみ無数の矢傷を負いながらも生き延びた際に使用したとされる止血秘薬法も伝承しており、現代でもお客様に感謝されています。

「妻鹿孫三郎・三井寺合戦図」を手にする片桐平智氏
「妻鹿孫三郎・三井寺合戦図」を手にする片桐平智氏
 また、黒田官兵衛家の家財の礎で、官兵衛の祖父が考案したとされる目薬の木の効用も、降嫁の奥方の赤松妻鹿に薩摩妻鹿伝来の軍陣医学が貢献したかと推測しています。黒田官兵衛も亜流の赤松妻鹿一族ですが、嘉吉の乱の際、責任、逐伝した薩摩妻鹿の兵法の血脈は伝承されたと考えています。前述の神澤様の膨大な妻鹿研究の結果によりますと、嘉吉の乱(1441年)後、存在不明の薩摩妻鹿家の嫡流が立証されたとのことでした。当家祖先が昔年に国府山城の城主であったと推測される様です。以前、テレビの珍名番組で紹介されたことがありますが、島津、妻鹿、目鹿、音揃、片桐と、5回も改姓し、いくら妻鹿で探しても見つからなかったと納得されました。中国の諺のように、「伝説は多く存在するが、眼にするものは少ない」という文言が身に染みました。
 こうした縁もある中、神澤様も私も70代なので、息災の内にお互いに談義をしたく、妻鹿本家当主として579年ぶりに播州妻鹿を訪問いたしました。快晴で古城跡の近くを流れる市川の水面が穏やかで綺麗でした。国府山城の建碑や黒田官兵衛所縁の目薬の木に思いを馳せ、黒田官兵衛様の父の墓所、黒田職隆の廟に花束を捧げました。神澤様の播州黒田武士の館にも立ち寄り、貴重な黒田家の遺品を拝眼し、御夫婦の心からの御案内に感謝するとともに播磨の土地に心惹かれる思いで堺に帰路し、先祖の御霊に報告いたしました。
 偶然にも、堺ジャーナルの記者の方も姫路の妻鹿の家系の方と今回の取材で初めて分かり、今秋の出来事は天命かと思っています。加藤均会長の御縁で海上自衛隊の方々との各種交流の機会をいただいたことも軍神の自然な流れだったのではと納得しています。また、いつものように、余生ある限り日本漢方医薬学の保存普及に、人知れず薩摩妻鹿の医学源流を後世に残す宿命に邁進していこうと肝に銘じることにいたしました。
黒田武士の館にて館長の神澤氏と
黒田武士の館にて館長の神澤氏と

“堺自然ふれあいの森”
堺 町並み スケッチ(250)
野 村 亜紀子 

利休の茶室
野 村 亜紀子
 家に居る事に慣れてしまって外出が億劫です。11月の中頃、秋空に誘われて久しく行っていない墓参りに鉢ヶ峰まで。いつも以上に掃除をし、亡き両親に家族の近況を報告するとともにお願いもし、安らぎをいただきました。三男である連れ合いなので墓は無く、私達夫婦は墓を作る気が無く子供達にまかせる事にしています。
 さて、自然という名が気になっていた「堺自然ふれあいの森」が墓地の隣にあるので初めて行って見る事に。小高い丘の上に建物が有りベンチに座るとやっと紅葉し始めた木々が美しくスケッチをする事に。無情にも「4時に閉鎖」とアナウンスが! 1時間も無い超速描き!! 恐れていた通り帰宅中の子供に囲まれ「エカイテル!」等話相手もし、五感を使うだけ使って描きました。この追われる様な感覚、久しぶり、夢中になる事、絵も、スポーツも、家事も植木の手入れも、全てが私にとって至福の時間なのかもしれない。コロナのお陰で自分を見直すことになり、日常のあたり前の生活こそが生きている幸せなのだと知ることが出来ました。一日も早く、元の生活にもどる事を願っています。

他市からの行政視察

10月21日 福岡市 2人
・施設入所者とのデジタル面会支援について
11月4日 兵庫県西宮市 9人
・救急ワークステーションについて


野村絵画教室 作品展15

 本紙連載「堺町並みスケッチ」の野村亜紀子氏が主催する絵画教室の作品展が開催されます。
 12月3日㈭~8日㈫
 11時~17時
ガルリー堺
堺区熊野町西3丁2番14号
松見ビル2階
(南海本線堺駅前)


12月 議会日程

3日㈭・4日㈮・7日㈪10時 本会議
10日㈭10時 市民人権委員会
      産業環境委員会
11日㈮10時 建設委員会
      文教委員会
14日㈪10時 総務財政委員会
      健康福祉委員会
16日㈬10時 議会運営委員会
18日㈮10時 本会議(採決)
 議事の都合により日程などが変更される場合があります。
 傍聴などの問い合わせは堺市議会事務局議事課(228―7812)まで。


国防と神社 (34)

『日本書紀』シリーズⅩⅩ
日本武尊東征伝説と国防意識 後編

大阪観光大学講師 久野 潤

 前回は日本武尊東征の際に重要な役割を果たし、近代日本においても崇敬された弟橘媛を祀る橘樹神社を取り上げた。
 第12代景行天皇の皇子である日本武尊は東国平定後、伊吹山で神の祟りに遭って病となった。『日本書紀』によると、伊勢の神宮に東征での俘虜を献じたが、都にたどり着くことができぬまま伊勢国能褒野で三十歳の若さで薨去した。景行天皇は日本武尊を能褒野陵に埋葬させ、明治12年(1879)内務省により現在の能褒野墓がそれに治定された。その傍に明治28年、日本武尊を祀る能褒野神社(現三重県亀山市)が創建された。
 薨去した日本武尊は白鳥となって飛び立ち、大和琴弾原(現奈良県御所市)、次いで河内旧市邑(現大阪府羽曳野市)に留まったため、両地にも陵が造営された(現白鳥陵)。そして白鳥が最後に降り立った地で祀られたと伝えられ、これが現在の大鳥大社(堺市西区)の発祥とされている。
 堺出身の歌人与謝野晶子は大鳥大社を深く崇敬し、境内には晶子の歌碑もある。晶子の本名が鳳志やうであることとはまさか関係ないであろうが、昭和12年(1937)支那事変(日中戦争)で一名の戦死者も出さずに帰還できた空母「鳳翔」乗組員が「神霊の加護」に感謝し、九二式艦上攻撃機のプロペラを大鳥大社に奉納した記録が残っている。「鳳翔」は大正11年(1922)、起工時から空母として設計された中では世界で初めて竣工したが、艦内神社として大鳥大社を分祠したかどうかは定かではない。

『日本書紀』編纂1300年記念シンポジウム

令和2年12月5日㈯
14時~17時(開場13時30分)
会場 大阪観光大学 明浄5号館2階 大講義室(JR「日根野」駅から徒歩)
講師 毛利正守(大阪市立大学名誉教授、古事記学会代表理事)「『日本書紀』の成立とその意義」
久野潤(大阪観光大学国際交流学部講師)「『日本書紀』編纂1200年と紀元2600年」
基調講演後、田中英道代表理事(東北大学名誉教授)を交えてパネルディスカッション
資料代 3000円(学会員 2000円(当日入会可)、学生500円)
主催 日本国史学会
03―6709―8872(啓文社書房内事務局)