次へ

百舌鳥古墳群
ビジターセンター
オープン

 堺市は3月13日、世界遺産「百舌鳥・古市古墳群」の価値や魅力を伝えるガイダンス機能等を備えた「百舌鳥古墳群ビジターセンター」をオープンするとともに、堺の歴史や古墳の知識をより深く学べる「堺市博物館」をリニューアルオープンした。これに合わせて特別展「海を越えたつながり―倭の五王と東アジア―」も同時開催されている。
 世界遺産の価値と古墳群の魅力をわかりやすく伝える展示コーナーのほか、壁面や床面に投影される超高精細な8K空撮映像等で、百舌鳥・古市古墳群の雄大さや堺の歴史・文化を体感できるシアター設備が楽しめる。
百舌鳥古墳群ビジターセンター
堺市堺区百舌鳥夕雲町2―160(仁徳天皇陵拝所 東)
9時~18時
TEL 072―228―7014
年末年始休館

オープニングセレモニーで永藤英機堺市長、宮本恵子堺市議会議長らによりテープカットが行われた(3月13日)

オープニングセレモニーで永藤英機堺市長、宮本恵子堺市議会議長らによりテープカットが行われた(3月13日)

内川に鯉のぼり

 地域の活性化を目的に堺駅前商店会、地元町会などにより取り付けられた鯉のぼりが内川で元気に泳いでいる。5月9日までの予定。
 毎年恒例の「鯉・来いまつり」は昨年に続き新型コロナウイルス感染症対策のため中止となった。

内川で元気に泳ぐ鯉のぼり(昨年)

内川で元気に泳ぐ鯉のぼり(昨年)

投稿
米と日本人

南海本線湊駅前
一心堂書店 鎌苅一身

 随分大げさなタイトルにしたが、十五年程前堺市の肝入りにより、町と農村のコラボとして、二年間休耕地で無農薬の米作りを行った。私たちの作った米は驚くほどおいしかったものだ。その年の末には我々の地元で、餅つき大会を行い人々にふるまい喜ばれた。
米作りの際、当地の世話人さんより一粒のモミ(多分一束の苗?)から三、四千粒程取れると聞いて、米の栽培効率に本当にびっくりしたことを覚えている。その時からその真偽を確かめたく、ずっと心に温めていた。
やっと昨年秋、以前お世話になった中区上之地域で、刈り取り直前の「ヒノヒカリ米」二束を分けて頂いた。一粒のモミから芽が出て、一般的にはその二つを三束にして、苗を作り植え付けるようだ。その束からは二六三二粒、他の分からは二九四五粒を数えることができた。しかし、いずれも玄米のままでは枡一合の八割程であった。米は炊くと二倍くらいになるが、ひと頃の元気な成人は毎食一合といわれ、日本人の一年間の消費量は最大約一石になる計算だ。(加賀百万石と言うが、膨大な人口を養えるということだ¦後述の高島正憲氏の推計によると、奈良期七百三十年頃の農業生産量は六百万石のようである)。
一粒のモミからの収穫は相当な高倍率であり、弥生期に稲作が入るまでの不安定な狩猟・採集・漁労時代から、日本人の食生活を根底から支えてきたと考えられる。
自分が、もし今遥かな古代人のように原野に放たれた場合、どう生きていけるだろうかと思いをめぐらせてもみた。(因みに、食べ物にもなるヒマワリの二五センチ程の大輪には約五〇〇程の種があるようだ)。
栽培面積を拡大することで余剰米が出て、新たな土地の所有などをめぐり、管理・支配する階層が生まれ、共同体からクニ(国)の発生につながっていったのだろう。
収穫のまつり(祭り)、支配のためのまつりごと(政)死者をまつる(祀る)ことも新たに変化、発展していったと考えられる。
いずれにしても稲作は、古代より現代に至るまで人口を増大させ、日本社会の歴史・文化・経済等の原動力になったと言えるだろう。(しかし、高島正憲氏の「経済成長の日本史」からの引用で、歴史家磯田道史氏のよると奈良時代、玄米で一人当たり一、四石強、江戸後期で三石程であったと推計されるようで、それ程大きな伸びではない「日経新聞令和三年二月一三日号」。素直にみて、生き物としての人の活動力は、その食べる量から見て相当な効率なのではなかろうか。一日中、手足を動かすだけでも大変なエネルギーを要すると思われる。
豊かではないにしても、米食のアジア諸国の人口が、中国(一四、四億)韓国(五一〇〇万)フィリピン(一、〇八億)インドネシア(二、七億))など多いのも窺い知れる。
一方、収穫量は米の半分といわれる小麦や、ジャガイモを主食とするヨーロッパ諸国の人口は、独(八三〇〇万)仏(六五〇〇万)英(六七〇〇万)であり気候、風土、面積、文化などの生活環境もあろうが、米の力とも言えるかもしれない。
全くの脱線であるが、米と麦の主食の違いが、京都大学山中伸弥教授の言う新型コロナ感染度合の差が、アジア、ジャパンファクターXの理由かなとも、勝手に空想してみた。
ところで、日本人力士が弱くなった理由に、米の飯と日本酒が少なくなってきたのではないかと、たしか初代若乃花が言っていたように記憶する。気の旧字「氣」の内に(米)があり、(精)の字にもあるのはなにか示唆的である。
今、米食が落ち込み米価の値下がり、食糧自給率、耕作放棄地、限界集落、農家の老齢化・疲弊、食糧廃棄など、大きく見れば世界的な食糧不足などの問題が噴出している。

参考文献  佐藤洋一郎 稲と米の民族誌
(NHK出版)
米の日本史(中公新書)


しめやかに
第百十九回
無縁物故者慰霊祭

 3月20日春分の日、「第百十九回無縁物故者慰霊祭」がサンスクエア堺(堺区)でしめやかに営まれた。
 同慰霊祭は生前、社会のため尽力されたにもかかわらず、看取られる縁者や知人もおられず、この世を去られた方々の霊を慰めようと、株式会社新生社代表取締役、加藤均氏が祭主となり、毎年、春分の日、秋分の日に執り行われている。祀られる御霊は三百三十四柱にのぼる。
 新型コロナウイルス対策で一般参列は受け付けず縮小開催となった。
 堺市から永藤英樹市長の代理として隅野巧 健康福祉局長、中谷省三教育長の代理として中井善弘同委員会総務部長が参列、追悼の辞を述べた。
 本光寺の足立英修住職による読経のもと参列者は献花を行い、御霊の冥福を祈った。

祭文を読み上げ御霊の冥福を祈る加藤均祭主

祭文を読み上げ御霊の冥福を祈る加藤均祭主

“花の浜寺公園”
堺 町並み スケッチ(254)
野 村 亜紀子 

町並み・新旧
野 村 亜紀子

 今年も海外旅行は行けなかった。個展の為に描くものが無い。旅行が叶わなくなった時は、多く有る海外の写真で描くと決めてはいるが、コロナで早くなってしまった。まだ元気でいるのに残念な事です。ゆっくり過去を見る事となり写り込んだ若い私が喜々としてスケッチしている姿にあの日を思い出す。30年も前に〝行ける時に行く〟と決めてから、ほとんど毎年、元気、ゆとり、理解がそろって実行された。時々の思い出により、描く意欲を得ることが出来たのです。家に居る事に慣れ外出がおっくうになってはいますが、たまに知人とおしゃべりすると嬉しく楽しい。何事も無い安心感は普通の日常にはとても大切なものと、あらためてわかりました。でも!最近少しは刺激が欲しいと思ったりすることも有り、人間は暖かくなると、気分も身体も活発になるようです。
 亡くなった父母の想い出いっぱいの浜寺公園の春から初夏にかけては、花が、めまぐるしく入れかわり満開の美しさを競い合い、本当にきれいです。桜か! バラ! を見に行こうかな~。
一人で!!


国防と神社(37)
承久の変800年シリーズⅢ
明治維新の礎となった後鳥羽上皇 後編

大阪観光大学講師 久野 潤

 前編では承久の変後、隠岐に遷幸(現行教科書では「配流」)された後鳥羽上皇ゆかりの神社を取り上げた。現在の島根県海士町にあたる中ノ島の源福寺を行在所としていた上皇は、延応元年(1239)に崩御し、源福寺の裏山に火葬塚が造営された。
 崩御2週間ほど前の御手印置文(遺言)により翌年、水無瀬離宮跡に後鳥羽天皇を祀る御影堂が建立された。江戸時代まで仏式であったが、王政復古(明治維新)の際の神仏分離で水無瀬宮(官幣中社)となり、昭和14年(1939)に官幣大社に昇格して水無瀬神宮と改称。崩御から700年にあたるこの年には、後鳥羽天皇七百年祭も挙行された。なお水無瀬神宮には、同じく承久の変後の遷幸により都を離れて崩御した土御門天皇・順徳天皇も合祀されている。
 一方、隠岐の火葬塚には江戸時代に松江藩主松平家により廟殿が設けられ、その後も島民により祭祀が行われていたと伝わる。当地には紀元二千六百年、すなわち『日本書紀』に記された建国から2600年という節目における島根県の記念事業として、やはり昭和14年に隠岐神社が創建された。後鳥羽天皇は多芸多能そして文武両道であったとされ、現在でも学問・スポーツの神として篤く崇敬されている。
 承久の変前の承元2年(1208)に詠まれた後鳥羽上皇の御製で、「奥山の おどろが下も 踏み分けて 道ある世ぞと 人に知らせむ」がある(「おどろ(棘)」は草木の乱れ茂った、転じてもつれ絡み合っているところの意)。武家政権が専横を極めた政情であっても、敢えて日本の正道を伝えてなければならないという大御心がうかがえよう。後世に正道を伝え遺そうとした後鳥羽天皇の評価について、戦後多くの歴史学者は「政治権力を武家から奪い返そうとした」などと低次元な論議に終始してきた。しかしその大御心は第96代後醍醐天皇の建武中興に受け継がれ、再び室町幕府という武家政権樹立により頓挫したものの、これらの歴史的記憶が江戸幕末期に尊皇思想に基づく全国の志士たちによる行動として開花し、日本は国柄を取り戻しつつ近代化に成功したのである。