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「遥かなる道」
 田中公道(オペラ歌手)

85歳、力強いテノールの歌声で観客を魅了する(島根県民会館で)
85歳、力強いテノールの歌声で観客を魅了する(島根県民会館で)

 18歳、療養中の夏の日の出来事だった。ラジオから流れたイタリア人テノール歌手の「輝かしい高音」は一瞬にして私を声の虜にした。「これだ!これしかない!これなら出来る!」と、ピアノを弾いたことのない私が一気にオペラ歌手へと夢を膨らませた瞬間だった。学業から落ちこぼれてラジオ作りに熱中した小中学校時代、目標を見失い「ゼロからスタート出来る何か」を探し求めた高校時代、決まった就職先から夜間大学へと夢を繋いだが、健康診断で肺浸潤と落伍した。
 夢の実現を求めた母校の音楽の先生に一笑され、他高校の先生に拾われた。
 21歳で島根大学教育学部特設音楽科に。胸を張っての入学だったが同期生から引けを取り、その劣等感が私を奮い立たせた。就職した尼崎市の中学校では子どもたちと情熱的に過ごし、当時あった宿直を一手に引き受け、その手当でレッスンに通い音楽コンクールに挑戦した。
 1968年、ブルガリア国ソフィアで開催の「第九回世界青年学生平和友好祭」に派遣され、ルーマニア、ソ連邦と、この異民族と異文化との出合いが未来の大きな夢への起爆剤となった。
 1970年、高名だったイタリアのバリトン歌手ドメニコ・マラテスタ氏から留学身元引受書が届いた。長年の憧れだった夢の実現と喜んだが、それ以上に膨らんだ大きな不安と自信喪失の苦悩の中、「人生に悔いを残さない」新婚の妻の一言で中学教師を退職「人生の全てを賭けて」横浜港から二人でイタリアに旅立った。貨客船とソヴィエト大陸鉄道、飛行機とを乗り継いで到着した憧れの地ミラノは眩しかった。
 ヴェルディ国立音楽院の劇場歌手養成コースでオペラを学び、マラテスタ師の下で最も基本となるイタリアの歌声を、それは日本で学んだ全てを覆すもので、学べば学ぶ程地獄に落ちた。
 1973年、イタリアに強い想いを残しながらも大阪芸術大学の教員を選択して帰国した。在職中も世界に夢を馳せ、1978年には世紀の名テノール歌手マリオ・デル・モナコ氏の下でオペラの神髄を学び、1986年からは大阪芸術大学と文部省海外派遣でイタリアに、その歌声を持って世界各国を歌い歩いた。
 世界に夢を馳せ世界で歌い競うことは、世界主流のイタリア的歌声を身に付けたとしても日本で長く歌っていると日本人的歌声に戻ってしまう「日本人の血」を感じての旅立ちと挑戦だった。
 世界への旅は常に喜びと感動が、世界で歌い競うことは常に高音の進化が、それは加齢への挑戦でもあった。そして旅には多くの出合いと友情があった。
 中国全土の主要86大学で1,247人の青年教師と学生の声楽指導を、世界各国でのイヴェント出演数は1,085回、国内外で約2,450回を歌い、各国からは92回の表彰を受けた。
 今年3月に85歳を迎え、「卒寿を目指して!世界を駆ける85歳のオペラ歌手」リサイタルを十数都市で、来年7月まで決まっているスケジュールを歌い、8月からは南米公演に出発する。
 18歳! 療養中に感激したあの「高音」が今も眩しく輝いている。



“昭和が遠くに(東湊)”
堺 町並み スケッチ(269)
野村亜紀子

野 村 亜紀子

 昭和30年頃、数多く見かけた建物です。門扉の奥に玄関があり、軒の低い中二階、身を寄せ合って生きる場所。当時は二階以上の建物がほとんど無く、空の大きな景色でした。私にとって70年前、夏は今より涼しかったはずですが、扇風機と団扇だけの涼は、暑い印象が強く残っています。現代は温暖化で40度近い温度となっていますが、クーラーのおかげで気持良く過せます。自然に逆らい、贅沢な生活環境を作っている事がいいのかと思いながらも、便利な贅沢を享受しています。戦後70年、想像もしなかった生活の進歩。さらに何十年、何百年先はどんな生活になっているのでしょうか、知りたい気持ちと、知るのが恐いと思う気持ちが交差します。
 梅雨時にたっぷり水分を与えられた、木々や花々が街中を色どり、散歩する目に嬉しい風景が多く、日々、変化する気温を楽しみ、身体中に風を感じる事は、生きている実感を幸せと思う時間です。年老いて〝生きる〟喜びを胸いっぱい深呼吸して、一日を大切に、目いっぱい充実したものにしたいものです。大切な、大切な24時間を!


風鈴まつり

鈴の宮 蜂田神社

写真
 今年で8回目の開催となる「風鈴まつり」が鈴の宮 蜂田神社で行われる。境内には地元住民や地域の企業、小学校、保育園の子どもたちにより吊された約1300の風鈴が涼しい音色を奏でる。=写真=
 毎年、奈良、兵庫、和歌山、京都など市外からも多くの見学者が訪れ写真を撮りながら、夏の風情を楽しむ。
 八田荘校区では、堺市の地域まちづくり支援事業を活用、地域の歴史や文化に触れることで、地域への愛着や誇りを持つことを目的に同校区歴史文化発見事業を実施しており、風鈴まつりはその一つ。
 磯﨑伸子宮司は「皆様に風鈴の涼しい音色と境内の爽やかな風を楽しんでいただければ」と語る。
 別名「鈴の宮」と呼ばれる蜂田神社。毎年の節分祭に占土鈴12個を作り神前に供え、鈴音の良し悪しでその年の吉凶を占ったという古事に由来する。
「風鈴まつり」
7月1日~8月31日
鈴の宮 蜂田神社
堺市中区八田寺町524
(深井駅より南海バス鈴の宮団地東口停徒歩5分)
TEL・FAX
072―271―1355

国防と神社 (51)陸海軍省設置150年シリーズⅥ

『日本書紀』が伝える食料安全保障

大阪観光大学講師 久野 潤

 本連載第15回において、近代日本陸海軍ならぬ皇軍の最たる起源は神武東征、すなわち『日本書紀』の伝える初代神武天皇による建国の大業の端緒に求められることを述べた。そして神武天皇(以下、即位前も本表記で統一)の軍は、昨今の我が国でもようやく国防の重要な一部として認識されるようになった、食料安全保障の担い手でもあったのである。
 神武天皇の曾祖父にあたる瓊瓊杵尊が天孫降臨の際に天照大神より賜ったいわゆる三大神勅のうち、「吾が高天原にきこしめす斎庭の穂を以てまた吾が児にまかせまつるべし」としたのが「斎庭稲穂の神勅」である。つまり、従来の狩猟等による殺し合い・奪い合いではなく、天上界にならって水田を営み、民が協力して毎年稲を収穫・備蓄するようにすれば、毎年安定した食糧獲得ができるとの啓示であった。
 『日本書紀』が描く神武東征では、日向(現宮崎県)を発った神武天皇は海伝いに菟狭(現大分県)次いで岡水門(現福岡県)に各約1か月、埃宮(現広島県)に約2か月、高島宮(現岡山県)には実に3年近くも滞在したのち、難波碕(現大阪府)に至り、大和(現奈良県)を目指した。高島宮では船団を調え兵糧を蓄えたとされるが、それまでの経由地は、稲作が伝播してゆく過程と見ることができよう。この稲作文化が西から東へ根付いていったことこそ、兵糧を蓄えながらの進軍、さらに足掛け8年に及ぶ遠征を可能とした。
 平成11年(1999)に施行された食料・農業・農村基本法の第2条4項は、「国民に対する食料の安定的な供給については、世界の食料の需給及び貿易が不安定な要素を有していることにかんがみ、国内の農業生産の増大を図ることを基本とし、これと輸入及び備蓄とを適切に組み合わせて行われなければならない」としている。しかし我が国では2000年以上前から既に、食料安全保障のあるべき理想が建国者の実行動で示されていたのである。