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堺を調べ隊! ⑵

新中国料理 HARAKAWA

 堺には「楽しい人たちや」・「頑張ってる会社やお店」がたくさんあります。
 そこで「堺を調べ隊!」が取材をして、その面白さや頑張っているところを皆様に知っていたきたいと思います。今回は「新中国料理 HARAKAWA」のオーナー原川 強さんをご紹介。

 メニューを拝見させていただくと、フカヒレなど高級食材を使ったお料理がありますがお店のコンセプトを教えていただけますか。

原川  13年前に堺市内で美味しい中国料理が食べれることを目指してオープンしました。HARAKAWAに一度食べにきたら次は自分の大切な人と一緒にまたHARAKAWAに連れて行きたい、と思えるようなお店を目指しています。
 以前に私も食べに来させてもらった時にお店に入ったら「いらっしゃいませ!」とちょっと離れた厨房から多くのスタッフがこちらを向いて声をかけられたことにビックリしました。

原川  うちのお店のほとんどが正社員で人を育てることがおもてなしの基本なのでスタッフ教育には時間をかけて教育しているつもりです。
 他店で初めて入った時に厨房のスタッフに挨拶されたことないですから。

気仙沼直送のフカヒレスープ
オーナー 原川 強さん
原川  ちょっとプレッシャーをかけられたみたいで。

 スタッフ教育以外に「HARAKAWA」独自の方針はありますか?

原川  うちの料理は添加物などは一切使わないので食材の味が料理の味を決めてしまいます。私が毎日、業者に頼らずこの目で確かめて仕入れています。

気仙沼直送のフカヒレスープ
気仙沼直送のフカヒレスープ
 経営者として何か気を使っていることはありますか。

原川  うちのお店のレシピは出来るだけ数値化してオープンにしています。中国料理の味付けは何種類もの素材を使っていますが全ての分量を1グラム単位で皆んなが見れるようににしています。でも仕入れた食材の水分量のばらつきなどで味が微妙に変わってしまうので難しいところです。
 そういえば「数値化の鬼」という本が経営書ですごく売れているらしいですよ。
原川  料理は「見て覚えろ、味は盗むもの」とかいう時代は終わったと思います。そういったやり方が料理界全体のレベルアップに繋がっていなかったと思います。今はSNSを使ったり、マーケティングに力を入れたりしています。
 料理人の方は全体的に若く、女性の方もいますがどういう方針で採用してるのですか。
原川  特に方針みたいなものはありませんが年齢や性別での区別は一切ありません。メニュー開発も任せていますし、やる気のある人はどんどん重要なポストで働いてもらっています。
落ち着いた雰囲気の店内で本格中華を満喫
落ち着いた雰囲気の店内で本格中華を満喫
 ちょうどコロナ禍になってしまった時に新地にオープンされましたが大変でしたか。

原川  オープンした早々に閉店になるかも、と真剣に落ち込みましたが、なんとか乗り切れました。今から思えば行動を起こしたからこそ、見えなかったことが見えてきました。その失敗をエネルギーにして現在セントラルキッチンを設置中で、さらに料理業界のレベルアップに繋げようと考えています。

 お話を聞いていますと料理人というよりIT企業の社長のお話を聞いてるような感じです。妙な風習にとらわれることなくで料理界を盛り上げてください。

新中国料理HARAKAWA
本店
大阪府堺市南区檜尾
3140―1進化第11ビル
TEL
072―272―0303
ランチ
 11時~15時(L.O.14時)
ディナー
17時~22時(L.O.21時)
月曜定休
北新地店
大阪府大阪市北区曾根崎新地1―3―23
FOODEARビル1F
TEL
06―6225―8588
17時30分―24時
(L.O.23時30分)
土・日・祝日 定休

“船待神社”
堺 町並み スケッチ(276)
野 村 亜紀子 

内川(錦之町西)
野 村 亜紀子

 阪堺線〝御陵前駅〟の近くに、船待神社が有ります。子供の頃、正月の晴れ着が嬉しくて、待ち遠しくて高学年になると自分で見上げ(自分の背丈と袖丈を縫っておく)をしていました。正月は着物を着て近所の親戚宅へ年詣に行き、お年玉と子どもが苦手な料理を食べて、百人一首や、双六で遊び三日間、正月を楽しみました。一月の十五日は、神社の境内で、とんど焼、大きな窪みに丸太や竹と共に正月飾りや習字を投げ入れ、子どもは習字の舞い上がる高さで、字が上手になる事を願うのです。そして二月三日の節分は、家で撒かれた豆を年の数より一つ多く食べ、年の数の倍を奉書に包んで神社に納めに行くのです。夜の行事の帰り道、天の川を中心に満点の星空を凍える寒さの中、家族で歩いたものです。夏はふとん太鼓の宮入りを、身体中に響く音と美しく化粧をした少年達がうらやましくて、なんで男だけと思った事を思い出しました。他にも行事が有ったでしょうが、私の思い出はこれだけです。遠い遠い昔の日本の生活ですが、余り着物姿を見かけない正月は〝晴れ〟が無くてさみしいものです。


小林美術館

特別企画のご案内

 冬季特別展『美の玉手箱 西洋との出会い、巨匠たちの挑戦』を開催中の小林美術館では、特別企画「狩野派と天下人―信長、秀吉、家康―」を実施する。
 セミナーでは、室町時代末期から江戸時代の終わりまで、画壇に君臨し続けた狩野派の歴史や魅力を紹介。展示では16歳の若さで幕府の御用絵師となった狩野探幽の富士図の他、狩野探淵の花鳥画や狩野永徳の手による国宝「唐獅子図屏風」の模写まで、狩野派にまつわる作品が多く紹介される。2月15日㈬・3月5日㈰、各日14時から(所要時間約30分)。講師は同館学芸員の福岡この実氏。入館料のみで参加可能。詳しくは同館(072―262―260)まで。http://www.kobayashi-bijutsu.com/

長谷川透「倣 唐獅子図屏風」
長谷川透「倣 唐獅子図屏風」

第83回深井地区
TBG大会

団体の部 優勝 深井北町TBGクラブ、準優勝 深井畑山町TBGクラブ・深井東町TBG倶楽部▽個人男子の部 優勝 辻尾正照(畑山町)、準優勝 川口 修(東町)、3位 辻本 勇(北町)、4位 河田東二郎(東町)、5位 中野勝次(水池町)▽個人女子の部 優勝 井上幸子(北町)、準優勝 河田美春(東町)、3位 中間有美子(東町)、4位 薮中悦子(畑山町)、5位 北埜直子(沢町)
写真は各部入賞者


国防と神社(57)
ガダルカナル島の戦いから80年

大阪観光大学講師 久野 潤

 一昨年は大東亜戦争開戦(日米開戦)80年で、再来年はその終結80年の節目を迎える。その中間にあたる本年も、昭和18年(1943)の各戦闘から80年。同年2月には、西太平洋ソロモン諸島の激戦地ガダルカナル島から日本軍が撤収(「転進」)し、ミッドウェー海戦に次ぐ戦局の転機となった。
 日本軍が米豪遮断のためガダルカナル島に飛行場を建設中の昭和17年8月7日、1万名を超えるアメリカ海兵隊が上陸。奇襲を受けた日本海軍の設営隊は駆逐され、完成間近の飛行場も制圧された。それに対して日本陸軍が最初に上陸させたのが、第七師団の歩兵第二十八連隊(連隊長一木清直大佐)を基幹とする一木支隊の第一梯団900名余りであった。8月18日にタイボ岬に上陸した一木支隊は西進して飛行場奪還を目指し、8月20日深夜(日本時間)から翌朝にかけて飛行場東側で約3000名の敵軍と交戦。一木支隊長以下777名が戦死し、壊滅した(イル川渡河戦)。後から上陸した第二梯団約1500名も、翌月の日本軍による第一次総攻撃で多くが戦死している。
 昭和56年8月20日、一木支隊の生存将兵と遺族から成る一木会により、一木連隊長以下2300余名の英霊を顕彰するため、北海道護國神社(旭川市)境内に「一木支隊鎮魂碑」が建立された。
 昭和17年10月の第二次総攻撃も大損害を出して失敗に終わったが、同月の南太平洋海戦で日本機動部隊がアメリカ機動部隊に勝利したことを受け、ガダルカナル島に最後に上陸したのが第三十八師団約1万名であった。敵の制空権下で輸送船が次々と撃沈され、多量の兵器弾薬や食料を失いながら、駆逐艦にも分乗して輸送された。しかし戦局は悪化の一途をたどり、12月31日には御前会議でガダルカナル撤退を決定。翌昭和18年2月に三次にわたり駆逐艦による撤収作戦が展開され、その時点でのほぼ全生存者1万3千名の収容に成功した。その中で戦闘を続け、最後に島を去ったのが、第三十八師団の歩兵第二百二十八連隊。約2500名中、撤収できたのは400名余りで、生きて再び祖国の地を踏んだのは約300人であった。
 昭和50年には2月28日に合わせ、生存将兵および遺族有志により、支那事変以来の連隊戦死者2400余名を顕彰する「慰霊 歩兵第二百二十八連隊 歩兵第二百二十八大隊」碑が愛知縣護國神社(名古屋市中区)境内に建立されている。