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さかい家康巡り
スタンプラリー開催中

スタンプラリー台紙は、市内観光案内所3か所、妙國寺、開口神社、シマノ自転車博物館、堺市博物館、さかい利晶の杜で配布中。スタンプラリー台紙は、市内観光案内所3か所、妙國寺、開口神社、シマノ自転車博物館、堺市博物館、さかい利晶の杜で配布中。

 堺フィルムオフィス((公社)堺観光コンベンション協会内)では、大河ドラマ「どうする家康」第28回「本能寺の変」で堺へ向かった家康が商人たちと手を結ぶシーンが描かれたことをきっかけに、登場人物ゆかりの地を中心に巡る「さかい家康巡りスタンプラリー」を開催中。
 堺が南蛮貿易で栄華を極めた戦国時代の歴史を感じながら、まち歩きを楽しむことができ、スタンプを全て集めることができた方は、抽選で景品も当たる企画となっている。
○期間 12月27日㈬まで ※景品なくなり次第、終了
○スタンプラリースポット 妙國寺、開口神社、シマノ自転車博物館、堺市博物館、さかい利晶の杜
※堺市博物館では、徳川家康と関わりの深い展示品に新たな解説文を付けて展示中。
○特典 スポット全てを巡られた方を対象に、抽選で景品をプレゼント(一人一回限り)
○抽選 期間中の9時~17時30分に、さかい利晶の杜で実施
詳しくはホームページへ


ゆっくり癒し旅 ようこそ わたらせ温泉へ

和と洋の心地よさが同居するカジュアルな宿和と洋の心地よさが同居するカジュアルな宿

 天然温泉源泉かけ流しの西日本最大 大露天風呂、日本一の家族専用貸切露天風呂8ヵ所など風情あふれる温泉、吟味された海と山の幸、多彩な品数を揃える料理、心から憩える宿室、まごころこもるサービス。

美肌作用があり、湯上りのお肌はすべすべで 美人湯として名高い良質の温泉(大露天風呂)美肌作用があり、湯上りのお肌はすべすべで 美人湯として名高い良質の温泉(大露天風呂)

 日頃の疲れを癒し湯けむりの中で満天の星を眺めながらほっとするひとときを「わたらせ温泉」でお楽しみください。
国際観光旅館
渡瀬温泉
けやきの杜
わたらせ温泉

和歌山県田辺市本宮町渡瀬45―1
電話での予約・問い合わせ
0735―42―1185


第百二十四回
無縁物故者慰霊祭

 9月23日の秋分の日、「第百二十四回無縁物故者慰霊祭」がサンスクエア堺(堺区)においてしめやかに営まれた。=写真=
 この慰霊祭は、一人寂しくこの世を去られた方々の霊を慰めるため、新生社 故 加藤均前代表取締役社長が祭主となり、50年以上に渡り毎年春秋の彼岸の中日に執り行われてきた。これまでに祀られた御霊は334柱にのぼっている。
 加藤浩輔祭主は「無縁物故者の御霊がいつまでもやすらかであられますよう、生ある限りこの法要を続けてまいります」と霊前に誓った。
 一般参列も受け付けられ、本光寺の足立英修住職による読経のもと、それぞれ献花を捧げ、物故者の冥福を祈った。


“〝倉〟八木栄次郎邸”
堺 町並み スケッチ(284)
野 村 亜紀子 

緑の影(堺東)

 もう10月、暑さは変わらない。〝秋〟という季節が遠く感じられる。無数の赤とんぼが身体の近くを飛んでいた頃、肌寒い夕方、そうした事が10月だったと。今は冷房無しでは過せない室内、日傘が手離せない屋外。自然が変わってしまったのか。人間の進化によって地球が変化しているのか。素晴らしい地球の全ての生物が永遠に生きて欲しいから、なんて思いながら歩いています。最近上を向いて歩きます。街の建物が高くなり、目新しく思えています。綾之町界隈は、終戦直前の大空襲を免れ、戦前の建物が比較的残っています。細い道沿いに立派な倉を見付け描きました。戦火で焼けた堺の街、私は幼過ぎて記憶には有りませんが、見た人の話では、山之口筋など商家の蔵が点々と焼け残っていたそうです。焼ける事が無かったら、どんな街並みを私達は見る事が出来たでしょうか、豪商の家が並び、荷車が行き交い、内川には、荷を積んだ船が行き交い、人々が生き生きと、走り回る砂埃の舞う道を想像します。内川はいつ頃迄利用されていたのでしょうか。いろいろ考える事は楽しい。秋よ来い!


『昭和史を考える
記録映像上映会』

 記録映像「『激動の記録第1集、戦時日本3』ウクライナ侵攻を考えるために―」を見ながら昭和史をともに学び、語り合う。10月14日11時から、堺市立東文化会館アミナス3階(北野田駅前)で。主催 昭和の庶民史を語る会(072―236―3357)。参加自由、直接会場へ。
『近代建築の幻燈上映会』
 忘れられている堺市内の懐かしいレトロ建築を見ながらありし日を思い出す。10月21日11時から、堺市立東図書館(北野田駅前)で。講師・明治建築研究会代表柴田正己氏。参加など問合せは柴田氏(090―4289―1492)まで。


国防と神社 (65)

生野の変から160年 後編

日本経済大学准教授 久野 潤

 第63回で生野義挙、いわゆる生野の変について取り上げたが、後編たる今回では変後も生き残った志士たちと殉難志士祭祀との関係に触れたい。
但馬たじまのくに養父やぶ郡能座村(現兵庫県養父市)に生まれた北垣国道は、池田草庵の私塾 青谿せいけい 書院に学び、文久3年(1863)10月の生野義挙に参加した。青谿書院後輩の進藤俊三郎より天誅(忠)組の破陣を知らされ、平野国臣(福岡)と共に挙兵の自重を主張したが、河上彌市ら強硬派に圧されて決起。本稿前編でも述べたように挙兵は失敗し、河上らは敗死した。北垣は新藤らと長州に潜伏したのち戊辰の役に参加し、鳥取藩に仕官。王政復古(明治維新)後は、高知・徳島県県令、京都府知事、北海道庁長官、さらに貴族院議員、枢密顧問官などを歴任した。
 現在、養父市能座にある国指定文化財のヒダリマキガヤで知られる北垣の生家跡には忠魂社が鎮座している。これは北垣が殉難した同志を祀った祠が昭和52年(1977)再建されたものだが、義挙で討ち死にした美玉三平(薩摩)や自刃した中島太郎兵衛(但馬)、獄死した平野や本田素行( 膳所 ぜぜ )など8名が祭神となっている。
 進藤俊三郎は原六郎と改名したのち長州藩に属して四境戦争(第二次長州征討)に従軍し、戊辰の役では鳥取藩 山國 やまぐに 隊の司令士として上野戦争はじめ関東~東北を転戦。さらに長州藩傘下の帰正隊隊長として箱館戦争まで戦い、王政復古後は鳥取藩士となり、初の天覧大閲兵式に大隊司令として参加している。第百国立銀行や東京貯蔵銀行(共に三菱UFJ銀行の前身)を創立するなど我が国銀行業の確立に多大な業績を残し、また山口招魂社(現山口護国神社、本連載第63回参照)創建や青谿書院財団法人化のため北垣と共に多額の寄付を行った。
 志願農兵で組織し奮戦した山國隊は郷土の誇りとされ、現在の(平安神宮)時代祭行列の先頭を行進する維新勤王隊列のモデルでもある。明治2年(1869)山國隊の戦死および戦病死者7名の招魂祭が行われ、それを起源とする招魂社が戦後「山國護國神社」と改称。同神社には戦後、日清日露戦争以降の地元出身戦没者も合祀されたが、境内に原や河田佐久馬隊長(鳥取)ら山國隊物故者の奥都城も並んでいる。