次へ

長年の交流促進を評価

日越堺友好協会がベトナム政府から表彰

ハー総領事(右)から加藤浩輔理事長(左)に表彰状が贈られた。ハー総領事(右)から加藤浩輔理事長(左)に表彰状が贈られた。

 堺市を拠点にベトナムとの友好交流を推進する認定特定非営利活動法人・日越堺友好協会が、ベトナム政府から表彰を受けた。3月6日、在大阪ベトナム社会主義共和国総領事館(堺区)で開かれた同協会の「令和7年度 理事会・総会」において、ゴー・チン・ハー総領事から表彰状が贈られた。
  ハー総領事は「日越堺友好協会が長年にわたり、両国の友好関係、特に堺市とベトナムの交流促進に多大な貢献を果たしてきたことを高く評価する」と述べ、今後も地方間・企業間交流を中心に経済協力の促進に貢献することを期待するとした。また、「ベトナムと日本の包括的戦略的パートナーシップの発展に向け、今後も支援・協力を期待しています」と語った。
  同協会は平成23年の設立以来、日本企業のベトナム進出支援、マグロ漁業に関する水産業発展事業、桜苗木の寄贈・育成事業、観賞用錦鯉センターの運営協力など、多岐にわたる活動を展開。昨年12月には、ビンディン省人民委員会と協力覚書を締結するなど、両国の関係強化に努めている。


第百二十七回
無縁物故者慰霊祭
しめやかに執り行う

祭文を読み上げ、御霊の冥福を祈る加藤浩輔祭主。祭文を読み上げ、御霊の冥福を祈る加藤浩輔祭主。

 春分の日の3月20日、「第127回無縁物故者慰霊祭」が大阪ベイプラザホテル(堺区)でしめやかに営まれた。
  この慰霊祭は、生前に社会へ貢献しながらも、看取る縁者や知人のいないまま亡くなった人々の霊を慰めるため、毎年春分の日と秋分の日に執り行われている。今回祀られた御霊は334柱にのぼる。
  法要では、本光寺の足立英修住職、養寿寺の足立英彰住職が読経を行い、行政関係者、一般参列者らが献花し、故人の冥福を祈った。
  堺市からは永藤英機市長の代理として杉中淳志健康福祉局長寿社会部長寿支援課長が、また関 百合子教育長の代理として伊藤修士教育委員会総務部長が参列し、それぞれ追悼の辞を述べた。
  祭主を務めた加藤浩輔氏は「子どもから高齢者まで、誰もが安心して暮らせる社会を築くため、今後も尽力していきたい。どうぞ安らかにお眠りください」と哀悼の意を表した。


内川に鯉のぼり

地域の活性化へ
堺駅前商店会など設置

内川の上を泳ぐ鯉のぼり内川の上を泳ぐ鯉のぼり

 堺駅前商店会や地元町会が地域活性化を目的に設置した「鯉のぼり」が、堺駅南歩道橋付近の内川に、さらに今年は大阪夢洲で開催される「大阪・関西万博」ののぼりも揚げられる。掲揚期間は4月13日から5月11日までの予定。
  春の訪れとともに、内川の上を色鮮やかな鯉のぼりが元気に泳ぎ、地域に季節の風情を添える。関係者は「多くの方に楽しんでもらい、地域のにぎわいにつながれば」と期待を寄せる。


“桜(内川)”
堺 町並み スケッチ(298)
野 村 亜紀子

大浜の松林

 三月半ば、暖かな日に、大仙公園を同窓生二人と散策、ドラ池で多くの鳥に出会いワイワイと観察、久しぶりの暖かな日差しに、身体中が幸せ、翼が有れば、鳥達と飛んでみたいと思ったり! 花はまだ少ないけれど、満開の梅と、河津桜が隣同士で咲いていた。今年の冬は余り体調が良くなくて、この日の暖かさは、本当に幸せと思われた。
  「内川の桜」この絵は昨年描いたもの。近年で一番美しいと思われ、桜に誘われてスケッチを、卓を囲んで花見をしている何組かは、外国の方と思われました。ワインを飲んでいる人、鍋を囲んでいる人々。私は今年クルーズで桜を見る予定、久しぶり。以前見た桜より大きく美しくなっているでしょうか。楽しみです。内川・土居川を桜いっぱいにと、官民で計画、私は南海本線堺駅・脇の船着場横に植樹しました。今は小さいながら、毎年花が咲いています。早く大きくなれと願っていますが、そうなった時、私は?。この冬、テレビの画面に何度も大雪が映し出されていました。つくづく、堺で生活していて良かったと、古墳を作る場所に選んだ、先人達を心から尊敬しています。


国防と神社(83)
軽巡洋艦「龍田」戦没から80年

日本経済大学准教授 久野 潤

 筆者は本年3月16日、富岡八幡宮(東京都江東区)での「昭和天皇救国の御決断」石碑建立6周年記念祭に参列した。同宮はある意味で、大東亜戦争の早期終戦と日本再建をもたらした神社とされている。
  昭和35年(1960)、富岡八幡宮境内に「天皇陛下御野立所」碑が建立された。これは戦時中に東京都により建てられていた木柱が朽ちたため、同じ場所に石碑として復興されたものである。木柱には、「昭和二十年三月十八日戦災地御巡幸ノ際玉歩ヲ此處こことどメサセ給フ」と記されていた。
  『昭和天皇実録』昭和20年3月18日条にも、東京大空襲で罹災した深川・本所・浅草・下谷・本郷・神田の各区(当時)への昭和天皇御巡視の記事が見える。「途中、車中において侍従長藤田尚徳に対し、焦土と化した東京を嘆かれ、関東大震災後の巡視の際よりも今回の方が遙かに無惨であり、一段と胸が痛む旨の御感想を述べられる」との記述があり、終戦の御聖断の伏線になったともいわれる。
  この碑の傍らに、平成31年(2019)建立されたのが「昭和天皇救国の御決断」碑で、銘板には富岡八幡宮友の会発起人である(故)加瀬英明氏が祭典の由緒を語る格好で以下の文が刻まれている。


 昭和十九(一九四四)年十一月に、アメリカ軍による東京空襲が始まった。昭和天皇はこの年十月に靖国神社例大祭に行幸されたのを最後に、皇居から出られなかった。
 天皇は三月十日に東京大空襲が行われると、被災地を視察されたいと仰言せられた。軍は天皇の抗戦の御決意が揺らぐことを心配して強く反対したが、天皇が固執された。
 宮内省と軍が「御巡幸」の日時について打ち合わせ、三月十八日日曜日午前九時から一時間と決定された。
 御料車からボンネットに立つ天皇旗を外し、いつもは沿道に警官が並ぶが、天皇であることが分からないように、できるだけ少なくし、交通を寸前まで規制しなかった。
 御料車が永代橋を渡り深川に入ると、見渡すかぎりの焼け野原だった。
 天皇は富岡八幡宮の焼け焦げた大鳥居の前で降りられると、大達内相の先導によって、延焼を免れた手水舎の前に向かわれた。粗末な机が置かれていた。
 内相が被害状況の御説明を終えると、天皇は「こんなに焼けたか」としばし絶句されて、立ちすくまれた。
 この時に、昭和天皇は惨禍を目のあたりにされて、終戦の御決意をされたにちがいない。
 大戦が八月十五日に終結した。八月十五日は江戸時代を通じて、富岡八幡宮の例大祭に当たった。終戦は富岡八幡宮の御神威によるものだった。
 新日本の再建は、富岡八幡宮から始まった。